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大陸性ステップ 旅と音楽。

旅や音楽の記録。

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Отчего вы всегда ходите в дуппи?

「あなたはなぜいつも黒をまとうのですか」

「わたくしは自身の人生の喪に服しておりますの」

チェホフのこのセリフとても情緒的だと思います。

^^ ^^

タシケントに来た頃には、見知らぬ通りすがりのウズベクの人に英語で助けてもらったり、行く先々で「どっから来たの?」と言われたりしたのだけれど、最近買い物しても、タクシーに乗っても、なにをしてもほんとにスルーされるようになってしまいました。
昨日は散髪にいったら、
「あら、あなたロシア語苦手なのね?」
といわれ、
「どうして(パチムー)ロシア語が苦手なの?」
と聞かれたので、
「いや、外国人っすから」
といったら、わからない、近所の高麗人かと思ったわ!と言われました。
私の容姿や肌の色もかなりローカライズされてきたのだろうか。
挙句、最近ドッピをかぶって外出するようになって、電車に乗ってもバスに乗っても、あまりにリアクションが無いのが不思議で、さすがにこの顔でドッピかぶってたら変じゃない?って自分では思うのですが、かなりスルーされます。(私のことを外国人と知っている同僚などは大笑いする)
別に私のウズベク語もロシア語もそんなに上達していないし、ケルヤプマンを、タシケント弁でケーヲッマンとか言ってないので、腑に落ちないです。

日本だと日本語の下手な人があまりいないんで、日本語が下手なだけで外国人だと思ってしまうんだけれど、この地では昔からいろいろ人の行き来があるので、ちょっとウズベク語が下手なだけでは外人と思われないのかもしれないし、どっかほかのテュルク系の人だと思われるのかもしれないです。
もしくは、タシケントとサマルカンド、ホラズム、フェルガナでもかなりウズベク語の方言が違うみたいなので、タシケントで変なウズベク語を話すくらいでは外国人だとは思わないのかなぁ。
いちいち注目されなくなって安心する気持ちがある一方で、現地の人に間違えられて(溶け込むことができて)うれしいみたいな気持ちもとうになくて、2年前みたいに外人、外人とちやほやされてた頃が懐かしいような気もする今日この頃。たまにはチヤホヤされたいなぁ。

と思う昨今です。

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お祝い頂きました


えー、お馬さんの灰皿と、ハスティイモムの壁掛けです。
私がハスティイモムが好きだとたびたび言っていたからです。


ドッピ(do`ppi)!柄なしですが、ビロードのうねる質感がとっても上品なのです!
ちなみに、黒地に白く、ペイズリーみたいな唐辛子柄が入るのがウズベキスタンの柄で、紺のビロードはタシケント特有の柄だと教えてもらいました。


裏地はこんなかわいいです。

お約束ですが、ネタで試着画像です。40歳。今年もがんばります。


午前0時半

1時間くらい歩いて渋谷駅につくと、東急プラザの前にある広いバスターミナルが、まるで花火大会みたいに混雑してました。歩道橋の上にも人がすずなりになっていて、「あんなに乗ったら橋が落ちちゃう」と思ったのを覚えています。

渋谷で友達と合流することができて、気持ちが安心しました。

それから、3-4時間歩いて深夜に調布に帰れましたが、3月なのに夜風が冷たくて、友達と励ましあいながら歩いたのを覚えています。

途中で疲れて、芦花公園のあたりでタクシーに乗りましたが、皆が一斉に自家用車を出したせいで道路が全く進まなくなっていたので、諦めて降りて歩きました。あんなに揺れた割りには、倒壊した家をあまり見なかったです。

家についたとき何をしたのか、何を考えたのかまったく覚えていません。とにかく寒くて疲れていたので、すぐに寝たのかも知れません。

あとになって、自分が見聞き体験したことをはるかに超えたことが日本列島に起きたということを知りました。

この日の出来事のこと、なるべく思い出したくないと思っているのに、なぜか今でも春が近づくとYoutubeなどであの日の映像を探して見てしまいます。今でも、映像や音声を見ただけで心臓がキューっとして鼓動が早くなるので、嫌なのに、怖いもの見たさなのかなんなのか、映像を見るたびに涙腺が緩みます。無意識に忘れないようにそうしてしまうんでしょうかね。

私は津波の被害を受けて無いし、家も家族も失ってないので、被災したなんていうのは大げさだと思いますけど、何も失ってないのかといえば、結局それがきっかけになって仕事も辞めて、ぜんぜん違う人生を歩み始めたし、そのとき受けたおっきなショック(震災そのものだけじゃなく、その後の社会の様子とか、人間関係の変化とか)から抜け出したかというと、まだ生生しくショックを受けたままのような気もしています。他の人がどうだかわからないけど。

おわり

午後7時半

赤坂から青山一丁目、表参道、渋谷と歩いていくにつれ、徒歩帰宅者の波がひどくなり、なかなか前に進めなくなりました。
 
前に本で読んだカンボジアの、ポルポト政権下で、人々が首都を追い出されて田舎に追放されるときの大行進(下放という?)を思い出しました。なんでそんなことを思い出したのかわかりません。
 
大学が避難所として開放されているのを見ました。看板が日本語だったので、日本語のわからない在京の外国人には、情報が少なくて可哀想だな、と思いました。
 
私は、早くこの遅い大行進から逃れたくて、怖い顔をして車道を歩いていきました。
 

午後6時半

日暮れの街に出てみると、人がぞろぞろと歩いていました。私と同じように徒歩で帰宅する人たちなんだな、とわかりました。
 
親しい同僚に会って、「大変なことになりましたね」などと会話しながらなぜか感極まってきて、あれ、おかしいな、と思いました。
 
まずは渋谷に行かないといけないので、山王下から赤坂サカスの前の坂道を歩き始めました。ルートは前もってGoogle地図で見て頭に入れてありました。
 
通りでは、殆どの店が店を閉めていて、吉野家が店を閉めているのを見て、はじめて「ああ、本当に大変なことなんだ」と思いました。
 
金曜の夜の赤坂の繁華街で、24時間の牛丼屋が店を閉めているなんて、なんてことだろう!と気づいたのです。我ながらこっけいな気づきなんですが。
 
古そうなビルで壁が崩れたようで、消防車とはしご車が出ているのを見ました。それと、店を閉めた和菓子やさんの店頭で店員が、「よかったら大福持っていってください」と、徒歩帰宅者に配っていて、涙腺がゆるみました。
 
私は、大福はもらわずに急いで歩きました。
 

午後4時ころ

幸い停電もせず、職場のインターネットは繋がっていたので、ニュースを見たりしました。その後テレビのある部屋で、テレビをつけると三陸のほうの映像が放映されていて、驚きました。
 
それより、窓から見える新橋あたりのビルの屋上で、火事が起きて黒い煙が立っていたので、関東大震災で火災が起きたことを思い出して、津波よりそちらに気を取られていました。
 
そう、これ。
 
それから、鉄道が動いてないとか、津波の被害がひどい、というニュースを読んだり、よく覚えていません。
 
帰宅前になって、災害にあたりどうしてもしておきたい仕事があって、少し残って仕事をしました。6時頃になって、帰ることにしました。家が遠くて徒歩で帰れない社員は会社に泊まることにしたようですが、私は調布だったのでなんとか帰れるんじゃないかと思いました。
 
隣のビルで同じ調布に住む友達が勤務していたので、彼と渋谷で落ち合う約束をしました。
 
停電も無かったし、ビルも壊れず、エレベーターも動いていたので、まだそのときは大きな災害の実感が無かったのは、今考えるとおかしいです。ピンと来なかったのです。
 

午後2時46分

3月11日なので、3年前のことをつらつら思い出してみます。
 
金曜日のお昼後で、あと数時間で週末っていう浮き足立った気分でした。
 
2:46、誰か女性が「地震!」と叫んで、その直後にあの揺れがきました。
 
私のオフィスはビルの7階で、比較的新しいビルの耐震構造のせいか、まるで外洋の船のように左右に、ゆっくりと大きく揺れました。立っていられず、机にしがみつきました。
 
大柄な社員がすぐにデスクの下に隠れたのを見て、そういえば学校でそう習ったなぁ、とぼんやり思いました。私自身は立って外を見ていたように思います。
 
事務の女性が携帯を握りしめて、実家に連絡が取れないと、困った顔をしていたのも覚えています。
 
スライド式の書庫が、勝手にスライドしてひどい音がしていました。キャビネットとかは倒れなかったと思います。
 
隣のビルの屋上、作業用の赤いクレーンのアームがひどくゆれているのを見て、「このクレーンが地上に落ちたら酷いことになるな」と思いました。
 
あとで6分間くらい揺れていたと聞きましたが、ずいぶん長い感じがしたのを覚えています。
 

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自己紹介

自閉な子供→ヒッピー→フリーター→IT会社員→ウズベキスタンで協力隊→無職→近所に就職。今後はたくさん旅をします。ときどき音楽の話題も。

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