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大陸性ステップ 旅と音楽。

旅や音楽の記録。

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出稼ぎ列車(4) 別れの抱擁

デッキに出てタバコを吸いながら朝日を眺めていた。列車が減速して、朝焼けのナボーイーの駅に着いた。

車両の端のほうで窮屈そうにしていた若いウズベク人のグループが、自分の体より大きい荷物をかついで降りてゆく。なかには、大きな自転車のフレーム部分をかついで降りてゆく者も。ホームに降りた彼らは、互いに抱き合って「ヤフシボリン」と、これからの旅路の平安を祝福しあっている。ロシアの同じ現場で働いた、異なる土地の出身者たちが、別れを惜しんでいた。

次に出稼ぎに出るときに同じ現場で会えるとも限らない、異なる場所の出身の者同士でも、異国の現場で同じウズベク人同士働いたよしみがあるのだろうと思う。駅は出会いと別れの場所だというけれど、あんなに熱い、気持ちのこもった風景を久しぶりに見てしまって胸を突いた。

ウルゲンチでハラショーラボータたちが降りたあとは、ウルゲンチからタシケントに上京する人たちが乗ってきていた。タシケントに向う父と娘、カラカルパク人のオパは、息子が意に反してタシケントでロシア人の娘と結婚してしまったので、ときどきタシケントに上京するそうだ。それから、一緒にヌクスで乗ってきたインテリ。

インテリのカラカルパク人は、現在タシケントで博士課程に在籍している。たまたま、私が先週出たカンファレンスでプレゼンテーションをしていた青年が彼の同僚だったらしく、(デジカメの写真を見せていたらそうとわかった)、彼は電子工学の専門で私がコンピューターの技師なので、なんとなく話が弾んだ。

ヌクスの学校には水道の設備は無く、当然手洗い場も足洗い場もなく、トイレは離れの掘っ立て小屋にぼっとん便所が掘ってあるような有様で、ずいぶん可哀想だと思ったけれど、生徒の顔は喜びに溢れていたし、そういう場所が出発点だとしても努力次第でタシケントで博士課程まで進めるようなケースもあるのなら、単に環境だけを問題にするのもショートサイテッドなのかも知れない。もっとも設備の整った学校で教育を受けたって勉強の出来ない奴もいれば不良になる奴もいる。
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出稼ぎ列車(3) ハラショーラボータ

出稼ぎ帰りの男たちは、ホラズム州やナボーイーで徐々に降りて行ったが、一人はこの列車の出発地のサラトフで働いて、これから東部のアンディジョンまで帰るということで、タシケントまで一緒に乗り合わせた。タシケントが近づくと(とはいえまだタシケントまでは2時間以上あったが)、いそいそと着替えて、髭を剃って、服をパリッとしたものに着替えて、香水をつけていた。

「久しぶりに故郷に帰るの、うれしい?」と聞くと、「そりゃーうれしいよ!」と満面の笑みで言った。2歳と5歳の男の子がいるそうだ。見た目は老けてるけどたぶん私より年下だろう。

運よく、出稼ぎ列車に乗り合わせたので、何人かの出稼ぎウズベク人に話を聞いてみたところ、口を揃えてロシアはいいところだ、と言っていた。

旧ソ連諸国からの出稼ぎ労働者というと、報道などを見る限り随分ロシアで酷い扱いをされているようで、不憫だなあと思っていたけれど、実際帰ってきた人たちが口々にお金も稼げるし、いい国だと言っているのなら、それほど酷い生活でもないのかも知れない。

もっともウズベキスタンだけで500万人もの男がロシアに出稼ぎに出ているなら、中央アジアやカフカス人全体で考えたら1000万人は超えるのだろうし、それだけいれば不幸な体験をする人も何人かいるはずで、そういう体験談が誇張されて広まる側面もあるのかな、と考えを改めた。

列車で出会った出稼ぎの男たちは、大概大柄でプロレスラーみたいな体格で、貧弱なスラブ人より力仕事向きだし、彼らの性格は大人しくて、親分の言うことをよく聞くし、それにグループ行動を好み、思いやりがあるので、出稼ぎの労働者のなかでは優秀(ハラショーラボータ)なのだろうな、と思う。

出稼ぎ列車(2) 帰郷

到着した列車を窓から覗いてみると、ウズベク人の浅黒い顔がたくさん見えた。それと、窓の外からもわかる巨大な荷物、荷物、荷物。

幾人かはヌクスで降りる乗客がいて、自分の体くらいある荷物を山ほど下ろし始める。カラカルパク人とは全然違う、浅黒くて中東寄りの顔。言葉からもウズベク人たちとわかる。車掌が、モタモタするな、早く降ろせ!と怒鳴る。

いよいよ車内に乗り込むと、こちらを見る顔、だれも真っ黒に日焼けして、上品で清潔とは言えない服を着ている。一見して肉体労働者とわかる。

それにしても車内は暑くて蒸す。ウズベク人の独特の体臭の匂いが篭っている。それに、乗客が多い。一つの区画に6人が乗れるはずなのに8人9人が身を寄せ合って座って、こちらを見ているのでなんだか笑っちゃう。

自分の席につくと、定員4名のところ、上段には1人が寝ていて下段には向かい合わせに6人が座っていたけれど、私がくると若い男がすぐに場所を開けてくれて、上段に移っていった。親切に私の座る場所を作ってくれる。それに、テーブルに出ていた巨大なメロンを切って分けてくれた。

聞くとニジニノブゴロドで春夏は働いていて、冬になったからウルゲンチに里帰りする出稼ぎ労働者とのことだった。皆バラバラのロシアの都市で働いていて、帰郷の列車で一緒になった同郷の者同士で一緒に座っているようだ。ニジニーからバスでサラトフへ来て、故郷に直行する列車に乗ったそうだ。

この列車に乗っているウズベク人は殆んどがそうした出稼ぎ労働者で、それぞれウルゲンチやらアンディジョンといった出身地に帰る人たちだった。荷物が多いのも納得。

建築現場で日に焼けて真っ黒になっているせいでだいぶ年取って見えるけれど、年を聞くと私と同じ73年生まれなので、親近感が沸いた。こどもは3人故郷に残してきている。

車内には次々と車内販売が回ってくるけれど、化繊の靴下やTシャツ、おもちゃだの小さなラジカセみたいなものだの、出稼ぎの人が家に土産に持って帰りたいようなのばかり売っている。それと、テンゲ、ルーブルをスムに変える違法な両替商もひっきりなしに回ってくる。

私がウズベク語を話すのですぐに打ち解けて色々と話を聞かされたりしたけれど、彼らは一様にロシアの労働許可証を持っていて、そのカードがあれば合法的にロシアの都市で働けるとのこと。旧ソ連の特別な労働枠というやつかな。

故郷が近くなって興奮したのか、ホラズムの音楽をかけて踊り出すグループもいる。並んで座る人たちもでっかいカバンを開けて荷物を詰め直したりしていて、カバンの中には化繊の靴下やストッキング新しいシャツ、おもちゃ、香水などのみやげ物がパンパンに詰まっていた。

ウルゲンチでは大勢のロシア帰りの労働者が降りていって、ホームにはカートで荷物を運ぶポーターが稼ぎ時とばかりに走り回っていた。

ウズベキスタンの人口は3000万人、そのうち、出稼ぎに300から500万人が出ているそうだ。

出稼ぎ列車(1) 乗車

ヌクスから帰る列車は、タシケントまで25時間かかる。長旅なので、楽な一等を取ろうと思ったけれど、あいにく一等は売り切れで、二等にあたるプラツカルタ(開放寝台)の切符が取れた。ちなみに、特等が2人用個室、一等が4人用個室、2等が開放寝台。

海外で寝台に乗るなんて久しぶりのことなので、盗難対策をどうしようとか、2つのかばんの配分をどうしようとか、事前に少し不安があった。あとは、
ロシアのサラトフというカザフ国境の街からカザフを横断してタシケントへ向う列車の2等寝台だとどういう客層がどっから乗ってきてるのか(それによってセキュリティ状況が違うので)を考えたけれど、そういうことは開けてみたいとわからない。

ホームに入ると、親切な駅のメカニックらしいおじさんが「バムカコイバゴン?(何号車?)」と聞いてきたので、「一号車です」と答えると、「ホームの、あーっちのほう」と指差してくれた。

すると背後から女性が声をかけてきた。
「あんたも一号車?わたしも一号車。一緒に行きましょうよ、ここに座んなさいよ」

見ると、足元にはでっかいバッグ。つまり一緒にホームのあーーっちまでカバンを運んで欲しいということだと思う。ウズベク語とカラカルパク語だけれどなんとなく会話になる。

時間になっても列車が来ないので駅員をつかまえると、パルタリチサ(一時間半)の遅れだそう。この暑い、直射日光のあたるホームで待つのはしんどいけど、カラカルパク人たちはタシケントの人と違って直射日光の中でも平気で待っている。「一時間半の遅れですよ」というと、不平不満を言いながら、それでも待つ。

列車がやってきたので眺めると、窓から覗く顔・顔・顔。どれも浅黒く日焼けしたウズベク人の顔だった。それに、溢れるばかりの荷物が積まれているのが窓の外からもわかる。

同行の女性は目当ての一号車に向けて走り出したので私もつられて走った。一号車の乗降口では、ひどく大きな荷物を次々に降ろすウズベク人と、我先に乗り込もうとする乗客が押し合い、へし合いして、ウズベク人の車掌は「早く下ろせ!」と怒鳴っている。どうなっちゃうの。

ポエズドから



25時間かけて、ウズベキスタンを列車で横断中。もうすぐ長旅も終わりです。正直退屈。

ロシアのサラトフからカザフスタンを経由して来たタシケント行きの国際列車、2等寝台(1等が取れなかった)は出稼ぎ列車でした。出稼ぎのウズベク人は大概いい人で、故郷が近づくと音楽をかけて踊り出したりします。

こちらのマナーで、パンだの葡萄だのひまわりの種だの、いろいろ勧められながら旅は続きます。

続き

この一週間で考えたことはいろいろあって、とりあえず箇条書きにしてみると。

■ヌクスに行くので不在にするよ、って言ってあるのにそこにあわせて二週間以内で、って振られて、温厚な私ですがちょっと虫の居所がだいぶアレ。

■私のプロジェクトは大人が本気でやれば一ヶ月で終わるようなものなのだけれど、一瞬進んだかと思うと3ヶ月進めなくなって、また一瞬進んだらなぜか3ヶ月進まなくなる、っていう具合で進んでいる。

その、待ってる3ヶ月っていうのは、おかしなたとえだけど、ガマの油を取るために、ガマとにらめっこしている3ヶ月みたいな気分です。お互いに見詰め合って、ガマの油がたらーりと垂れてくるのを待っているようなものです。ほんと、ちゃっちゃとすすめたい。

■Uztelecomに談判に行ったとき、1人目と2人目はまったく話が通じなかったけど、3人目のエンジニア(システム管理者)が若者だったけど、ほんとに理解が早くて、その後のケアも100点だった。ああいう人大事なのだよな。新興国の優秀なITのエンジニアってどっか外国へ行っちゃうパターンが多いはずなのにちゃんと国に残って働いてくれているのが、本当に有難いことだ。

■やっぱり準備をしないで行き当たりばったりで作業してしまうので、結局現地で色々情報が必要になってしまって情報を出してもらおうとするとギャクギッレされたりして、準備9割の日本人としては磨り減る。じゃあ日本人がリーダーシップとって準備すればいいじゃん、って思うでしょ?でも準備する隙がないんだよ。当日の朝に「今日やって」って言われるようなことばかりで。今回もそうだし。たまたま早く帰ってきたらその足で「どこ行って、何やって」って言われるようなことばかりで。

まあしかしそういう行き当たりばったりで何とか結果オーライに収めちゃう不思議な才能がこっちの人にはある。私には無いけど。何にも準備しないでとりあえず関係者が一同に会して「じゃあやろう」とかで、それでうまく行くんだから、はたから見てると神事とか宗教行事を見てるみたいで、不思議。

■停電でうまく動かなかったことに関しては、起こりうる停電も想定して準備しておくのがちゃんとしたエンジニアなんだと思うから、万全に準備したのに黒い幕が、とか言ってるのも私の甘い考えなのかもしれない。結局停電かもしれない、って自分で気づいて確認できたのでいいけど。

■工科大のプレゼンに関しては、前日に告知っていうのもひどいけど、もともとその日はプロジェクトで三箇所の拠点に行く予定になってて、そっちに告知もしてあったので、なんでそっちを簡単にキャンセルっていうか、無かったことにしちゃうのかが一番疑問だ。結果的に早く終わったので行ったけど、もともと行けないスケジュール感だったし。

■ネットワークの実装を知っている人がいなくて、つまり私だけがアイデアを出したり、成功失敗の責任を負っているのだけれど、それが結構負担。日本だとチームでやる仕事なんだろうけど、ここでは全部一人でやっていて、相談相手がいない。他のスタッフは他人事ってかんじで、あからさまに結果だけ求めてくるし、準備なしで即決解決して当然っていう期待をされているみたい。でも、実装はもっとトライ&エラーなので当然いろいろ失敗とか見落としはある。

実際には一緒に作業にまわっている青年がいて、彼だけは他人事じゃなく、とても意欲的なのだけれど、ちょっと意欲的すぎる人で。

彼についてはもう少し別の機会にきちんと書きます。

■そんなこんなで明日ヌクスに行くのに何も準備できてなくてなんか申し訳ない。これからちょっとおロシア語でも書こうかと思ってるけど。

ITワーカーの最悪な一週間、または彼らの最悪な瞬間

ITワーカーの目の前に黒い幕がサーっとおりて、視界が暗くなってくる瞬間というのは・・・

「充分にテストして成功するはずの実装が、本番環境でまったく、まったく!動かなかったとき」

今週、私の目の前に黒い幕が二回もおりて、もう息切れ。

先週から時系列でいくと、先週金曜日、そっから数えて二週間以内に各拠点のDSL実装を済ましてしまうということになって、関連資料を二ヶ月もほっておいたのであわくって整理。

同時に、大家の代理の不動産屋から電話がきて、5日以内に不動産登記をする必要があるから、と一方的に言ってきて、この忙しいのに月曜をまるまる空けることにする。なんでどいつもこいつも、直前に告知するの。

翌土曜日、急に言われてWANの拡張(大きなネットワーク更改ってこと)をすることになり、奇跡的に30分でなんとか成功。

月曜日、不動産登記のためにあけておいたら電話が来る予定なのに何も音沙汰が無く、やぶへびになりそうなので特にこちらからは連絡しないでおいた。

火曜日、拠点に行ったらテストではうまく行っていたPPTPがまったく通らず、仕切りなおし(ここで一度目の黒い幕が)

その夜、ウォッカ飲み過ぎて階段から落ちて足を捻挫。

水曜日、酒臭い状態でUztelecomのヘッドクオーターへゆき、問題解決を求める。都合三人と話した。1人目と2人目のUztelecom社員は、まったく私の意図を理解してくれず、全部説明した挙句「お前は何を求めているのだ」と聞かれる始末。3人目にやってきたシステムアドミニストレーターは私が説明をはじめて15秒で全てを理解してくれて、もうその場で必要な対処をしてくれた。(なんたる快挙)

同じ水曜日、夏に書いたアーティクルのどうのこうのでつまりは明日タシケント情報工科大学でプレゼンしてもらうことになったからよろしく、と電話連絡を貰う。いつものことながら無茶振りだけど前日の告知はないんじゃないの?(ちなみにプレゼンは出来合い)

木曜日、なんとかおめかししてプレゼン行ったらプログラム上では16時の開始だったんだけれど、なぜかプレゼンターが会場に来てないっていう事件が多発していてなぜか繰上げで午前中にプレゼン終わる。その後、早く終わっちゃったのでプロジェクトの続きに行くが、やっぱりうまくいく筈のPPTP接続ができない。(ここで二回目の黒い幕が下りる)

1時間ばかり悩んだり電話したりした挙句、結局ヘッドクオーターが停電しててなんにも動いてないっていうことがわかり、仕切りなおし。(リモートで作業している人がいるときに停電してるなら教えて欲しいよね)

今に至る。そして明日はヌクスに飛ぶよ。

ってな具合で。
(続く、ただし元気があれば)

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自閉な子供→ヒッピー→フリーター→IT会社員→ウズベキスタンで協力隊→無職→近所に就職。今後はたくさん旅をします。ときどき音楽の話題も。

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