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大陸性ステップ 旅と音楽。

旅や音楽の記録。

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雑感

3/11夜 雑感。

またテレビが映らなくなった。前回映らなくなったのは先月20日くらいで、直ったのが今月2日あたりだった。

私は月額料金を払ってケーブルTVを契約していて、40チャンネル見られるようになっているのだが、今見られるのはケーブルが不要なタシケント都市チャンネルだけだ。

また大家に電話しなければならない。うんざり。

思えばこの国に来てから、あるべき形でプロバイドされないサービスばかり目立つ。

映らないケーブルテレビ、発信できない携帯電話、売ってないスーパー、インターネットに出られないインターネット接続、現金の在庫が無い銀行、オーダーを取りに来ないレストラン、等々。こういうとき私は、腕組みをして頭を90度横に傾けてしまいそうになる。

自分で書いていても、ドリフのコントじゃないかと思う。でもこれは全部本当だ。困ったもんだ。

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ロシア語の授業があったのだけれど、先生は昔ピオネールの隊員だったそうだ。ピオネールは、ソ連のボーイスカウトのようなもので、品行方正な子供だけが入団を許されていたそうな。

誇らしげにそんな話をしていた先生はじつに優良なソ連の子だったのだろう。

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それから、ロシア語の教科書にこういうのが出てきた。
Студенческий Строительный Отряд

直訳すると、大学生建設グループといって、夏休みになると大学生はシベリア鉄道や幹線道路を作りにゆく必要があったらしい。昼間は労働して、夜はギターを弾いたり踊ったりして、どうやら楽しかったらしい。とてもソ連的だと思う。

ウズベキスタンでは大学生や社会人が綿花を摘みに行く必要があることは有名だが、ソ連時代からそういう習慣があったという背景を理解すれば、少しもおかしなことじゃないと思った。

それにこの国の若者たちは、家の手伝いをするのは当たり前なので、お兄さんお姉さんが働いているのなら自主的に手伝うのだろうし。

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タシケントの桜(に似た花)


タシケントの街中で。綺麗でしょう!







桜より時期が早いので杏か何かの花かと思いますが、とても桜に似てるので、良い気持ちになった。意外と、桜以外にも花が先に咲く木があるんだな、と思いました。

タシケントの写真#8


ノータリー=公証人役場。賃貸契約の時などに書類を作りにきます。


町並み。ヘインツの広告は、タシケント東洋学大学。


レトロなトラムバイ(路面電車)


カラカルパク名産のウォッカ。頂き物。

春の吹雪

春の吹雪。

3/7から降り始めた雪は、翌日までずーっと降り続いて、9日の朝にやっと止みました。すっかり、白銀の世界になってしまいました。

タシケントにてひとふゆ過ごしましたが、渡航前の砂漠のイメージと裏腹に、夏以外は意外と雨・雪が多いです。雪解け水も豊富にあることでしょう。夏場、植え込みに水を流しっぱなしにしているのが勿体無いと思っていましたが、冬場にこれだけ降るなら、あのくらい水を使ってもしょうがないか、なんて思い始めています。

タシケント人は(特に男性は)傘を使いません。時折雨が降るけれど、梅雨とかスコールのような雨ではなくて、霧雨みたいな軽い雨が多いからです。湿度が低いので濡れてもすぐに乾くし。ヒマラヤより西にいることを実感します。

カラカルパク語の教科書

(2014/1月 カラカルパク語の辞書と会話集Upしました!)

カラカルパク語、ご存知でしょうか。

実は、ウズベキスタン共和国の中に、カラカルパクスタン共和国という国があります。なんだか不思議ですね。で、そのカラカルパクスタン共和国の公用語が、カラカルパク語です。Wikipediaによると話者数は40万人程度らしいです。ちなみに、パキスタンとは関連ありません。

同僚隊員が、このカラカルパクスタン共和国の学校でPCインストラクタとして勤務しているのですが、教科書がカラカルパク語で書かれているので、読めない!という問題があると聞きました。



我々は、JICAの研修でウズベク語を習ってくるのですが、カラカルパクエリアではウズベク語をあまり使わないので、同任地のボランティアたちは独学でカラカルパク語を覚え、活動しているそうです。いやー、大変なことだ。

カラカルパク語は、テュルク語の1つですが、系統でいうとカザフ語に近いそうです。そういえば、顔もカラカルパク人‐カザフ人‐キルギス人は似てる気がします。

テュルク語の分類だと、

カラカルパク‐カザフ‐キルギスのグループ
ウズベク‐ウイグルのグループ
トルクメン‐アゼルバイジャン‐トルコのグループ

に分かれています。

ウイグルに行ってウズベク語を喋ってみたい、と思っていますが、ロシア語の語彙が多く含まれるウズベク語が果たして通じるのか。興味あります。

My Birthday Came and Went...

My birthday came and went...

一年で一番友達が関心を寄せてくれる一日。3月7日は私の誕生日でした。

もしも職場にいたら同僚たちがパンとチキンの丸焼きを買ってきて、ジュースでトーストしてくれていた筈なのだけれど、丁度その日はJICAの隊員総会があって、出勤できなかった。


隊員総会の一こま。先輩隊員によるショッキングなスライド。オシュは一皿2100Kcal、ノン一個は980Kcalなんだって・・・

その夜は隊員と職員の送別会がありました。誕生日なので気が大きくなって、ビール、ワイン、ウォッカウォッカ。ウォッカ。根暗な性格なのであんまり人前に出たりするの好きじゃないんだけれど、誕生日なので気が大きくなって、散々大騒ぎしたみたい。恥ずかしい。

同期隊員のすごくおいしいケーキの差し入れも頂きました。

ところでこの日、とても珍しく

吹雪

でした。私の生まれた1974年のこの日も雪が降っていたらしいよ。


翌日3月8日は、国際婦人デーで国民の休日。残ったウォッカを水で薄めながら雪を眺めていました。

世界にはまだまだ秘境がたくさんある。

最近、何か情報を検索していると、世界一周中の若者のブログやTwitterページに行き当たることが多いです。それも一人だけじゃなくて、すっごくたくさんの人が、ブログやTwitterで情報を発信しながら世界一周してるんだな、ってわかります。

先日少し下の世代の人と話していて、タロウさんの時代にバックパッキングなんてしてる人いなかったんじゃないか、と言われたのですが、そんなことは無いです。

私が20代のとき、今から20年前くらいですが、日本人のバックパッカーも世界一周中の人もいっぱいいました。沢木耕太郎さんの頃で40年前くらいでしょ?金子光春さんが放浪していた頃はさすがに少なかったと思うけど。

でも、私の頃、インターネットが無かったから情報発信しなかったんですよね。正確には、情報発信していたけど、それは個々の宿におかれている連絡ノートだったり、地球の歩き方(書籍のね)に投稿したりする方法しかなかったんです。

だから、当時から名も無き伝説のパッカーみたいな人はたくさんいました。可視化されてなかっただけです。

重たいロンリープラネットとか歩き方を何冊も持ち歩いて、バックパックが重くて馬鹿みたい!と思ったり、ある国を出たときにその国のページは破り捨てたり、しました。

今はそんなことしなくても、スマートフォンを持っていれば先々で随時情報を得ることができるので、非常に楽です。それに、地球の歩き方に頼らなくても、世界中の個人がいろんな場所から情報を発信してくれるおかげで、ガイドブックに載ってない場所への旅も難しくなくなりました。

それじゃ、どんどんあからさまになって、世界中の秘境がなくなっていくのではないの?かというと、そうでもないです。やっぱり世界は広くて、まだまだ情報が無い、少ない場所はたくさんあります。

2011年、中国大陸から台湾の離島に渡る国際高速艇に乗りましたが、その船の情報はまだインターネット上にも殆どなくて、中国語のBBSを翻訳して情報を得ました。バックパッカーが利用できる(それに金額的にもパッカー向け)にもかかわらず、殆どのバックパッカーが存在を知らないみたいです。

台湾と中国みたいなメジャーな場所でさえそうなんですから、まだまだ、世界には秘境がめちゃめちゃあるはず、です。

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自己紹介

自閉な子供→ヒッピー→フリーター→IT会社員→ウズベキスタンで協力隊→無職→近所に就職。今後はたくさん旅をします。ときどき音楽の話題も。

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