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大陸性ステップ 旅と音楽。

旅や音楽の記録。

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タシケントとロシア語




親戚の子らが遊びに来てました。

彼等は、ウズベク人ですがウズベク語よりロシア語のほうが得意なようです。小さい子はロシア語の保育園、大きい子はロシア語学校に入れているそうです。両親も、彼等の間ではウズベク語で会話して、子供とはロシア語で話しています。ロシア語で子を育てることが、英才教育のような位置づけになっている様子です。

街中では、私が外国人であると見て、人々がロシア語で話しかけてきます。ジュースを買っても、値段をロシア語で言われて、お願いしてウズベク語で言い直してもらったりします。

ここでは多くの人がロシア語とウズベク語のバイリンガルなので、多くの日本人が外国語アレルギーなのと異なり、外国語を喋ることに対する抵抗が少ないのではないかと思いました。

私も、タシケントにいるうちにロシア語を学習したいと思っているのですが、日本語を話せる家庭教師っていうことになると、一時間10ドルくらいが相場という話を聞いて、ちょっと高すぎるので迷っています。習い事に使えるお金はせいぜい20ドル/月です。日本の外国語スクールみたいに、教室形態でロシア語を学べる場所は無いものか。

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アリシェル・ナヴォイー劇場



今日は、市街の中心部にある、アリシェル・ナヴォイー劇場ヘ。

この、アリシェル・ナヴォイー劇場は、第二次大戦後ロシアの捕虜になり強制連行された日本人たちが建設に関わったことで知られています。



タシケントの古い建物は、1966年の大地震でだいぶ壊れてしまったのですが、この建物は珍しく大地震に耐えて残されています。

もっとこじんまりした、小さな建物を想像していたのですが、とても大きな建物だったので驚きました。


今は修繕中で、劇場としては運営されていません。修繕が終わったらぜひ、中も見てみたいと思います。

кассаはキャッシャー、つまり切符売り場です。

西日に照らされていい風景でした。

タシケントのバス停


食料品メインの、オロイボゾール


午後6時、影がながーーーぃです。

助け合い、譲り合い

ウズベキスタンに来て、いいなと思ったことは、譲り合いの精神があちこちで見られるところです。バスや地下鉄に老人や、子連れの女性が乗ってくれば、男性たちは必ず席を立って譲るし、荷物をたくさん持った人がおれば、荷物を空いているスペースに置く手伝いをしてあげたり、маршрутка(マルシュルートカ)と呼ばれるミニバスでは、後ろのほうの座席の乗客は、前の乗客に運賃を手渡し、リレー式に運転手に運賃を手渡す文化があります。朝の混んだバスでも、乗客同士がちょっと体をずらしたり、降りる客を通してあげたり、配慮があるので、あまり殺伐とするようなことがありません。

もうひとつ面白いと思うことは、タクシーが少ないこと。マークをつけた公的なタクシーはあることはあるのですが、あまり街中で見かけません。そのわけは、普通の人がタクシーを兼ねているから。道で手をあげて待っていると、なんでもない普通の車が止まってくれて、いくらかのお金で目的地まで乗せてくれます。これは、公的なタクシーより安い値段です。また、道で歩いていると、乗ってく?という意味でププ、とクラクションを鳴らされます。これもタクシーでない普通の車。白タクと呼ぶ人もいますが、私の印象では白タクという感じではなくて、助け合いみたいに見えます。別に法外な値段を請求するわけじゃないし、むしろタクシーより安いし、便利。



先日、語学実習を兼ねてタシケントのムスタカリクマイドン(独立広場)へゆき、戦没者記念碑を見てきました。第二次大戦で命を落とした数十万の若い兵士の戦没者名簿があります。ウズベキスタンと第二次大戦って、いまいちピンと来なかったのですが、当然、当時ここはソ連の一部で、ソ連兵として戦って亡くなったウイグル人のための記念碑でした。静粛な広場に、銅版に刻まれた無数の兵士の名前がありました。

広場には母の像と、絶やすことなく燃やし続ける火があります。温厚で大人しくて、音楽と踊りが好きなウズベク人が、戦争に行って戦ったという事実が伝わってきて、戦争というのは悲しいものだと思いました。タシケントへ観光に来られた際にはぜひ一度訪れて欲しい場所です。


ウスマノフさんち



色々と言いわすれていますが、今週からタシケント北東にあるウスマノフさんの家でホームステイさせて頂いています。今月末まで、JICAウズベキスタンでの現地語訓練中はこちらにお世話になることになっています。

ウスマノフさんの家は、典型的なウズベク人家庭の造りになっています。家の中央には庭(хобри)があり、庭を取り囲むように母屋、離れ、トイレとバスルーム(банна)、食堂、家畜小屋があります。ウスマノフさんご家族は母屋に住み、私は離れでひとりで住んでいます。朝食と夕食はホストマザーがおいしいウズベク料理を作ってくれます。

庭には、色々な果物の木が植えてあり、今は柿がなっているようです。葡萄(узум)や何やら知らない果物もなっています。タバコを吸いに中庭に下りて、空を見上げると真っ青な空が見えるので、幸せな気分になります。

ウズベク料理は、オシュが有名ですが、マカロニとじゃがいもと肉をトマト味で炒めたようなものや、やはりトマト味のスープにサワークリームを入れたものに、ノン(ウズベクパン)を浸して食べたりします。私の口に合うし、一度もお腹を壊していないです。

朝日のあたる部屋なので、だいたい朝5時には朝日で目が覚めて、シャワーを浴びて、9時には出勤、17時には帰宅して、20時から夕飯、21時には眠ります。こちらは陽が落ちないので、20時半頃までは明るく、通りで子供らが遊んでいます。



出勤は近くのバス停(бекати)から、115番のバスに乗って一本、近いので便利です。はじめの日はバスの乗り方も知らなくてドキドキしていましたが、各停留所に止まってくれるので、乗りたい場所で乗って、車掌(кондактор)にお金(бахоси)を払い、降りたいバス停で降りればいいだけでした。

こちらには5人のお子さんがいましたが、上の4人の娘さんが全員結婚して家を出ていますので、末っ子の息子さんだけが家に住んでいます。彼は優秀で、大学を出て通信技術分野の仕事をしています。アメリカの洋楽が好きなので、時々一緒にアメリカンな音楽の話をしたり、一緒に聞いたりします。

ウスマノフさんの家は、8月からの私の職場にも近いし、ご飯がおいしいので、都合がつくなら8月以降も暫く住まわせてほしいくらいです。


杏のジャム、ADSL、3Gモデム

朝食においしい杏のジャムが出ました。お母さんに聞くと、ウズベク家庭ではどこも手作りだそう。杏はどこから買うのと訪ねると、杏は買わない。道になっていたり、ご近所からたくさん貰えるのですって。

仕事の帰りにKo‘chaを眺めると葡萄がなっていました。いい国だな。

ご飯はだいたいノンとトマトベースの何かを食べています。じゃがいもとマカロニをトマト味で調理したのは、ロシア語でпофлоцкиというらしく、とてもおいしかったYo!

夜、洋楽が好きな息子としばらくお話。家にADSLをひかないのかと聞くと、ADSLより3Gモデムのほうが早いのでADSLを引くメリットが無いって。FTTHもあるけれどだいぶ高額。彼は70000スムのUcellのモデムを使っていた。

こちらの携帯電話サービスは実は日本と同等のものを提供していて、HSDPAで7.2Gの通信ができます。今のFOMAと同等。料金制度は従量制なのですが。

語学が得意な人たち


◇タシケント中心部のアロールボゾール

 タシケントでは、ロシア語を話す人口は非常に多いらしく、街中で耳にする言葉も、ウズベク語とロシア語が混在しています。レストランやホテル等のサービス業では、ロシア人のスタッフが殆どで、ロシア語によるサービスが行われています。バザールでは、ウズベク語がおもに話されていますが、ロシア人の客もいるため、ロシア語で接客する風景も見られます。

 英語に関しては、私がこれまで出入りしている場所では、特に若い世代の人々は、よく英語を話す印象があります。ウズベク人の若者の話す英語は決してブロークンではなく、丁寧な、きちんとした表現を使います。

 携帯電話会社で順番を待っていたところ、あるウズベク人の青年が近づいてきて、 " If you have any inconvenience, counter #1 will help you. (もし何か不便があるなら、1番カウンターに行くといいよ)" と言ってくれました。お礼をすると彼は去ってゆきました。

 私が外国人であると見て、携帯会社のスタッフではない通りすがりの彼が助け舟を出してくれたのが嬉しかったのも去ることながら、彼の綺麗な英語にいたく感動しました。

 その他の場所で耳にする英語も、文法的に正しい綺麗な英語であるのがとても印象的です。ウズベク人は言語能力が高いと聞いていましたが、本当にそのようです。言語の教育システムが良いのでしょうか。

 その後、通りを歩いているときに、水が買いたくて一軒のマガジン(雑貨店)に寄ったところ、10代らしいお嬢さんが店番をしていて、私に、「你是中国人吗?」と、中国語で話しかけてきました。ウズベク人の言語能力の高さには感心します。


自己紹介#2

土曜日、渡月して初の休日です。

ウズベキスタンのことを日本語では月即別と書くそうで、そうすると渡米とか渡欧に倣って渡月といえるかと。(?)

一度も洗濯をしていなかったので、同期のHさんに洗剤を分けてもらって、洗濯。干す場所が無いのでバルコニーに洗濯物を直接並べました。日差しが強いので、すぐに布が日焼けしてしまいそう。アウターだけは浴室に干しました。

綺麗好きなウズベク人なので外から見えるベランダに洗濯物を干すのは怒られてしまうかな。

今日は文房具を買いにちょっとバザールへ、ノートとはがきを買って、ホームステイに備えてシャンプーや石鹸を買って、夜はウズベク語の宿題とロシア語の勉強をします。

授業で自己紹介を作ったので紹介します。前に作った自己紹介のUpdateになります。

自己紹介#2

менинг исмим таро ияма. мен япониядаги йокогама шахарда 1974 йилда тугурганман. 38 ёшдаман. мен болалигимда мактабда давлат тилини яхши қўраман ёки жисмоний тарбияни ёмон кўраман.

мен токйодаги ___ университетда економикани ўкйдим. ўкигандан кейин тармоқ хакида фирмада 15 йил ишладим. кейин кунгилли булиб ўзбекистонга келдим.

менинг мутахассислигим тармоқ технологи. мен тармоқ инженериман. ______ ______ ______ институтеда тармоқ мутахассус булиб ишлайман. чет тиллардан инглиз, хитой, ва озгина ўзбек тилини биламан.

менинг ойлам 5 кишидан иборат. ота онам пеисионер. улар хал хир сабзаботлар ўстиришни яхши кўради. опам компютер фирмада ишлаганди. хозир у ишдан кетиб уй бекаси бўлди. унда иккита фарзанд бор. ўкам дорилар чикарадиган фирмасида ишлайман. у уйланган. мен уйланмаганман.

буш бактимда интернетга чикиб янгиликлар ўкйиб мусикани эшитишни яхши кўраман. хозир ўзбекча замонабий мусикага кузукаман.

ўзбекистон ва япониянинг フレンドシップ учун харакат киламан.

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自閉な子供→ヒッピー→フリーター→IT会社員→ウズベキスタンで協力隊→無職→近所に就職。今後はたくさん旅をします。ときどき音楽の話題も。

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