「邪魔してごめんなさい、迷惑じゃないですか」と2度も3度も言われながら終わらない立ち話をしました。
ロシア語のレッスンを終えて、風が冷たい夜の8時半、最寄のマガジン(コンビニ)でタバコを買って家に帰ろうとすると、見たことのある青年が私を見ていました。
彼は、たしか外交大学の学生で、流暢な英語と片言の日本語を話す、近所の人。お姉さんは日本人と結婚して神戸在住。引っ越したその日に日本語で話しかけられてびっくりして以来、一度も会わないなと思っていました。
でも、名前を忘れてしまっていて、電話番号も壊れた電話機に入っていたきりで、持っていません。どうしようかな、と思いつつ、握手しました。
何してるの?
「散歩ですよ、いつも散歩するんです。メトロの駅の、にぎわってるところまで歩いて、スーパーを見て、帰って来ます。」
そうそう、彼は若いのに暗いまなざしが印象的で、控えめな、かすれた、か細い声で喋るのが特徴。
ところで名前なんだっけ?
「モハメドです」(※仮名です、プライバシー保護のため)
そうそう、モハメド君、電話が壊れてあなたの名前と電話番号なくしてしまった、ごめんね。
「いいんですよ、また着歴残しておきますよ」
彼の電話には私の名前、тароと入っていたようでした。
夜の散歩が趣味なんだ、今はどこに行くの?
「家に帰るんですけど、一緒に行きましょうよ」
ということで、家まで一緒に歩くことになりました。
「今度卒業で学位をもらうんですよ」
おめでとう、就職先は決まった?
「まだ決まってません。でも働きます」
消え入りそうなかすれた声で話すのが印象的です。
5分ほどで私の玄関先まで来たので、手を差し出して握手して、別れの挨拶を
したつもりでしたが、
「もしよかったら、今からうちに遊びに来てください、母と二人暮らしなんですよ」
と言う。
さすがに、もう9時になろうという時間にひとの家に行くのは悪いので、辞退しました。
「そうですか、じゃあ、また次の機会に遊びにきてください」
それで、別れようとすると、まだついてきて、いかにも話し足りない感じに、話題をふってくるので、寒かったけど私のマンションの玄関口で立ち話になりました。
ウクライナの話とか、彼がベラルーシで生まれていま29歳だとか、日本の貿易に船舶が使われてるか、どうかという話。英語がとても得意なので会話に詰まることもなく。
どういう流れか、ルーツの話になって、
あなたはウズベク人なの?
「私はウズベクです。ウズベク語も得意です。でも母語はロシア語です。半分ロシアで、半分はチェチェンとウズベクとトルクメンだから・・」
一旦言葉を切った彼は、
「私の祖先はヒヴァの人間なんですよ」
といって、ヒヴァがいかに素晴らしいかを語り始めました。
典型的なムスリムな名前で黒髪だったので、てっきりウズベク人だと早合点していたけれど、言われてみれば、ウズベク人の標準からするとずっと薄い、青白い顔立ちをしていて、目元ももっと涼しげな感じで、ロシア語で言うところのチースティな(純血の)ウズベクというよりは、カフカス人といわれれば納得がいく顔立ち。
私たちの前を、彼の知り合いらしい背の高いロシア人の若者が、同じく背の高い美人の女の子の腰を抱いて通り過ぎたとき、彼は「やぁ」と挨拶をして握手をしたけれど、これからデートらしい若者は「じゃあ、また今度な」とかなり素っ気無く行ってしまったとき、20代の若い世代のあの感じ、を見せ付けられた感じがして、微妙な気持ちになった。子供のころにはわりと横並びだったのに、どうでもいいことですぐ差が付いてしまって、かたや美女と闇に消えて、かたやひとり夜中のスーパーマーケット散歩をする、あの感じ。
時計を見ると、もう30分も外で立ち話をしていて、いい加減寒かったし、なぜか少し不憫に見えてしまって、家でお茶を飲む?と誘った。
海外に在住するとき、ただ近所で知り合って何度か会ったような人を家に招くような軽率なことはしません。もともとそれを目的で話しかけてきて、家の金品を盗むことをたくらんでいるのかもしれないし、夜の街を徘徊するような青年なんて、本当は空き巣をしようとしているのかも知れない。
ただ、彼の場合、外交大学で働く私の日本人の知り合いのこともきちんとフルネームで知っているし、普段から待ち伏せされているわけでもないし、いざとなったら小柄な彼になら腕力でも勝てそうだし、という風に考えました。
でも、返事はというと、うちの最寄のインターネットカフェを指差して、
「いえ、今からインターネットをしないといけないから、お宅にはお邪魔できません」
ということだったので、安心した。でも、そもそも、もともとインターネットカフェを目指していたのなら、今日会った場所からぐるっと遠回りしていることになるので、たぶん方便だと思うのだけれど。
その後もなんとなく立ち話が続いて、あまつさえ、「いい人が多いけど、悪い人もいるから、ローカル(の人)と知り合いになるときは気をつけてください」とアドバイスもされ、ようやく九時半になって、また、
「邪魔してごめんなさい」
と小さな声で言われて、やっと彼は家と逆の方向へ歩いて去ってゆきました。
以前、タイの東北のコンケンという町の映画館で出会った女性が、
「私は、友達もいないし、毎週末にひとりで映画を見るのが唯一の楽しみなのよ」と言っていたのを今でも覚えています。彼女はなぜか影があって、暗い瞳をしていて、言うこともネガティブでぜんぜんタイ人らしくない人だったので、20年もたってまだその場面を思い出すことがあるのですが、今日会った彼も、底抜けに明るくてノリがいいふつうのウズベク人とは全然違った、暗い瞳をした人なので、「こういう人のこと、なかなか忘れられないのかもしれない」と思いつつ、眠りにつきました。
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