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大陸性ステップ 旅と音楽。

旅や音楽の記録。

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味の素

味の素というと、顔をしかめるナチュラル派の人もいるのは知っているけれど、私は味の素が好きだ。

特に、私は残りご飯をチャーハンにするのが好きで、電子レンジの無い我が家で冷たいご飯があるときの必須メニューになっている。それに、こちらのお米は粘りが無いので、厚みのあるウズベクフライパンであまりにも簡単にパラパラのチャーハンができる。チャーハンには炒める段階で味の素を振り掛けると独特の風味が出てまことに美味しいと思う。

今はなかなか食べられないけれど冷奴に味の素もうまいし、きゅうりの浅漬けにぱらっと振るのもうまい。目玉焼きにも必須だ。

しかし、ウズベキスタンではなかなか手に入らないし、たまに見かけるのは中国産の粗悪な製品で、どうも粒が大きくて、使いづらい。だから日本に帰ることがあれば山ほどの味の素を買いたいと思っていた。

このたび帰国していた際に、買い物にゆく母親に「味の素を買ってきて」と頼んだら、1キロ(500gを2袋)買ってきてくれたので驚いた。

なによりそんなに大きな袋の味の素を販売していることを知らなかったし、袋いっぱいにあの邪悪な顔の赤いパンダがいる・・。たしかに山ほど欲しいとは思っていたけれど、山ほど買って来いとは言ってない orz

「あと10ヶ月しかいないから、1袋で十分だし、預け入れ荷物は20キロまでだから、1キロの味の素を運ぶのはちょっと抵抗があるんだけれど」

と、買ってきてくれたことに感謝しつつ身内のよしみで恨み言を言ってしまったら、

「協力隊の仲間に差し上げればいいんじゃないの?」と涼しい顔で言われてしまった。

結局、手荷物とスーツケースに分散して1キロの味の素をトラフィッキングすることに成功した。もう、味の素切れを恐れることはない。


右端が大袋の味の素である。
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靴紐!



日本から買ってきたかったものの筆頭にあったのが、靴紐。

当然、タシケントの人も靴を履くので、靴紐くらい捜せば見つかるのだろうけど、週に一度しか無い休みにこの炎天下でバザールや靴の専門店を何軒もまわって、私に必要な75センチと120センチの靴紐を探し回るのは想像しただけで嫌だった。

それにしても、なんと靴紐の痛むことか!(私だけ?)

日本では、靴紐が痛んで替えたことなど1度くらいしかなかったのに、タシケントに持ってきた靴は、いずれも紐がぼろぼろに痛んでしまい、紐の先端の固めた部分だけが千切れてしまったものもある。スニーカーなどは紐を締めようと引っ張ったら両端がぶちっと千切れてしまった。(ちなみに、アシアナ航空でタシケントに到着していざ降りようとしていたときの話だ。)



単に靴紐が寿命だったということも考えられるけれど、こちらの歩きづらい凸凹した道や、乾燥した気候で靴の革が硬くなっているせいかも、とも思う。



東急ハンズを物色していたら、こういう、シリコンでできた靴紐の代用品も見つけた。シリコンが伸び縮みするので紐を結ぶ手間が無いらしい。加えていろんな色があるので、見ていて楽しい。あとはこの過酷な気候で持ちこたえてくれれば良いのだけれど。


靴が汚いですね。


新しい靴紐であと10ヶ月せっせと歩くよ。

タシケントで何語で話したらいいの??

我々より1年後の新隊員の話などをきいていて、

思い出した。一年前にタシケントに来たときのこと。

ロシア語に面食らった日々だったなぁ。それで、今はロシア語とどのように取り組んでいるのか、一年かけてわかったことなどを書いてみます。

タシケントに来たころ、街の人々の9割はロシア語で話しかけてくるし、職場も半分がロシア語話者なので共通語がロシア語、おまけに、住んだのがロシア人居住区だったのでご近所は皆ロシア人、つまり近所の人との会話もロシア語という環境でした。

せっかく日本で二が月みっちりウズベク語を学んできたのに、誰もウズベク語で話しかけてくれない、というのがストレスでした。

もちろん、ウズベク人相手なら、こちらから「ウズベク語で話して下さい」とリクエストすればウズベク語で話してくれるのだから、用は足りるのだけれど、何より、ロシア語が全然わからない自分がなんとも不完全な気がしてしまって、話すのに気後れしたり、妙な焦りや恥ずかしさがあったりしました。

おまけに、たまにいる、ちょっとナショナリズムを発揮させちゃった若者たちは、逆にロシア語を話すことを嫌がって、ウズベク語で話すことを求められたりして、ロシア語に取り組む気持ちをそのたびに削がれたりしました。

一年こつこつとロシア語の勉強をして、最近は簡単な質問やら会話はできるようになってきたので、だいぶん気持ちが落ち着きました。それで改めて思うんだけれど、そんなにロシア語に関して心配する必要は無かったかも知れません。

その理由は、

まず、職場の人は、だいたい(7割くらい)は、ロシア語とウズベク語のバイリンガルだから、丁寧にこちらから「ウズベク語でお願いします」といえば、ウズベク語を話してくれる。

普段ウズベク語を使わないロシア語話者の人も、じつは聞いたら理解できるし、ヘタだから話したくないだけで実は話せるっていう人が多い。ウズベク語を話せないと思っていたロシア語話者の同僚(非ウズベク人)が、最近は私にだけはウズベク語で話してくれるようになったり。実際に、働いている人でウズベク語が全然わからない、っていうロシア語話者(ロシア人を含む)には、ほんの数人にしか会ったことがないです。

また、職場の場合はたいてい数人のスタッフがいるので、もしもロシア語話者との会話に困っても、近くの人が手助けしてくれるのが普通。

街中では、ウズベク人もたいていロシア語で話しかけてくるけれど、じつはロシア語が下手だったり苦手な人も多いので、ウズベク語でおねがい、といえば喜んでウズベク語で話してくれる人も多い。

もちろん、母語よりロシア語が得意っていうウズベク人も、多くいるけど、ロシア語話者のウズベク人だって、親戚や友達付き合いを通じてウズベク語を使う機会の無い人はいないはずなので、まったくウズベク語(母語)と無縁で育ってきた人なんているのかな、と思います。

働いてないおばちゃんやおばあちゃんなどは、全然ウズベク語ができない人もいる。特に、私のマンションのロシア系住人のそういう人たちはウズベク語をわからない。だから、そういう人たちと会話するために簡単なロシア語の会話ができたほうが良いけれど、お隣さんのロシア人夫婦はロシア語オンリーの奥さんと違って、旦那さんは流暢にウズベク語を話すし、ロシア人だからロシア語しか通じないっていう状況ではないみたいです。

結論、タシケントでロシア語は話せるに越したことはないけれど、話せなくても全然問題ないし、話せないことに引け目を感じるひつようは全然ない。げんに、地方から進学でタシケントに来ている学生などは、全然ロシア語がわからなくても気丈に生きているわけだし。

ひとつだけ困ることがあるとしたら、電話です。電話の場合、見知った相手以外は相手が何語話者だかわからないので、ウズベク語話者でもロシア語を使う機会が多いように見受けられます。私も苦手なロシア語で電話対応をしないといけなかったのがストレスでした。

私の場合は電話でウズベク語で話そうとしても片言なので、相手が気を使ってロシア語で言い直してくれるっていうのがなんとも困りましたねー。

東京では誰も席を譲らない?

この前東京に帰ったときに、ちょっとショックだったことがあって、それは、老人に席を譲らないこと。

タシケントで必要なものを買出しに出た帰り、ちょうど退勤時間帯だったので、席は働き盛りの人たちで埋まっていたのだけれど、ある駅で大きな荷物を持った老婆が乗り込んできて、出入り口付近に立っていた私は、たぶん誰かがすぐに席を譲るんだろうと思っていました。

でも、席に座った20代30代くらいの誰もが、スマフォを触ったり漫画を読んだりしているだけで、老婆に気づきもしないで、当然誰も席を譲らないのでびっくりしました。

私は、電車に多くの人が乗っているのに、まるで自分の部屋に一人でいるかのように振舞うことに違和感を感じていました。かと思うと、電車で赤子が泣けば嫌な顔をしたり、妙に他人の振る舞いに文句のある人が多かったり、いったい、他人を意識しているのか、していないのか、どっちなの?

震災後に、日本中のメディアに「絆」っていう文字が溢れたことがあって、私はなんだか同調できずに嫌な気分になっていたんだけれど、もしも本当に日本人が絆を大切にするのなら、老人に席を譲るくらいのことはできるだろうに、と思ったし、災害が起きたときに絆、絆とお祭りみたいに騒いでも、日常で他人への気遣いができないのなら、そんなの無いようなものだな、と思いました。

ウズベキスタンでは、老人や婦人は敬われるので、電車で座っている人たちは、いつもそういう人が乗ってきたかどうか確認するし、さっと席を立って譲るのが当たり前の行動になっています。そういうのが絆だよねえ。

面倒くさいくらいコミュニケーションを求められるタシケント暮らしがちょっと懐かしくなった一幕でした。

とにかく出たとこ勝負

さて、

日本での短い休暇から帰り、何事もなかったかのように活動は再開しています。

JICA協力隊員は休みの長い人が多いようで、2ヶ月休みだなんだと聞こえてきますが、私のところは職員も皆出勤しているし、結局試験休みの数日と、帰省の11日だけ休みということになりました。(あ、他人と比べちゃいけないんでしたっけ)

結局家にいても暑くてだらだらするだけなので、出勤でも構わないのかもしれませんが、気持ちは憂鬱です。

ある日出勤すると、10時からITルーム(私の常駐する部屋)で教職員向けの講義があるので準備して!と言われました。前もって聞いてませんでした。

10時になってぞろぞろと受講者である先生方がやってきて、着席して、講師役の同僚Q君がやってきて、その段階になって、天井に取り付けてあるプロジェクターを使うためのソフトウェアが無いので、私のノートPCを貸して!と言われました。

講義があってプロジェクターを使うことがわかってるならなんで前もって準備しておかないんだろう?と、いつものことながら思うのです。

当初、講習用のPCの1台を使う予定だったらしいですが、講習用のPCは18台しかなく、受講者は18名なので、使えないはずなのです。それに、もしも受講者が来てなくて、講習用のPCを使えたとしても、そこにはプロジェクター投影用のソフトウェア(ネットワーク経由)が入ってないので使えません。

結局私のPCを借りないと講義ができないということになって、開始という段になって貸しました。私もしたい仕事があったのですが、しょうがない。

このように、出たとこ勝負になってしまうことは、今回だけではなく、だいたいこの国で仕事をするときには、前もって策定された計画はなく、ある日関係者が一同に会して、その場で課題が与えられて、その場で口頭ですることを決めて、その場でやっちゃう、というケースが多いです。

だから、私がラボを作って色々検証したい、という希望を伝えても、何週間もかけて、回線と機器を自由に使って色々と試す、という意味が理解されずに、今日の夜は回線が空いてるから検証してもいいよ、などと言われます。検証というのも、その場ではじめてその場で終わるもの、だと考えられているからです。

私は、いかなる仕事も準備ありきだと思っているほうなので、こうした出たとこ勝負で間に合わせの仕事をするのが嫌なのですが、この国では往々にして出たとこ勝負で仕事をすすめている側面があるので、頭からそれを否定するのも憚られます。

ちょうど、池上彰さんの本を電子書籍で読んでいて、これから発展する国は、書籍が豊富に売られていて、若者が熱心に本を読んでいること、という一説がありましたが、この国は残念ながら本屋や雑誌のスタンドが極端に少なくて、人々が本を読んでいるのを滅多に見かけません。

新興国によくあるパターンで、高学歴重視な国なので、わが職場でも一生懸命スタッフに修士を取らせようとしたりしていますが、学校に行かすだけで本を読むようになるとは思えないし、学校へ行かせたら論理的思考が身につくというわけじゃ無いと思うんですよね(ちょっと言いすぎかな?)

本をたくさん読んで先人の考えに触れることで培われる論理的思考というのはあると思います。

コンピューター業界で仕事をするのに必要なのは現場経験とか、とにかくコードを書くとか、実務だと思うので、コンピューター業界で働くために修士とか博士みたいなラベルは全然要らないと思います。でもとにかく学歴ないと箔がつかないと考える人が多いようですね。

聞き捨てならない

聞き捨てならない父の一言

父と会話していて、こんな一言がありました。

「まったく、イスラム教徒ってのはひでぇもんだな。仲間内で殺し合いをしたり、テロをしたり」

イスラム教の国に幸せに暮らす私としては、ここは否定しておかないといけません。

「イスラム教徒は、世界に16億人いるんですよ、当然、善良な人が殆どなんだから、一部の過激なグループの人々が過激な行動をするだけで、イスラム教徒はひどいなんて言うのはおかしいです。げんに、私は普段から善良で温厚なイスラム教徒と住んでいるのだし、これまでにもイスラム教徒にはたびたび助けられているし、むしろ親切な良い人たちが多いんですからね」

実際に、マレーシアでもインドネシアでも良い友達ができたし、タイのムスリムの家族は人生の恩師とも言えるアドバイスをくれたし、今はウズベキスタンで、生真面目で善良なムスリムたちが、助け合ったり分け合ったりしているのを見ると、とてもじゃないが納得できる発言ではありませんでした。

うちの父は、海外経験もなく日本で職人一筋に生きてきた、きわめてローカルな人だと思います。善良な気持ちで、日々テレビで放映されるシリアの内戦や、エジプトの混乱を見るにつけ、イスラム教徒はひどいもんだ、という認識を持ったのでしょう。だから、知っていて差別する宗教差別的な発言ではないと思っています。ただの横丁のおじさんの感想といった発言なのです。善良な市民である父に、変なゆがんだ知識を植えつけているのは誰なんでしょうか。

うちの父はテレビで情報を得るのを好みます。テレビで見られることがつまり世界で起きていることだと考えているんでしょう。

イスラム教徒、とひとくくりに言っても、その中にスンナ派とシーア派があるだとか、さらに細かな学派に分かれていて、過激なことをしている人々がどの部分に属していて・・・ということは、ただの善良な市民であるうちの父の知るところではありません。テレビが好きな父が米側からの視点をもとにしたテレビの報道でイスラム=悪という印象を持ってしまうのは仕方が無いと思います。旧ソ連の国で、ロシアメディアを見ていると、日本の報道はずいぶんアメリカ寄りの視点に立っているのだな、という印象を持ちます。

思うに、テレビは、またイスラム教徒が過激な事件を起こした、という報道はするが、じゃあイスラム教というのは何か、というバックグラウンドまでは伝えないし、日本ではそういった教育はされない、という要因があります。普通の、街の日本人にとってはイスラム教徒っていうのが少数民族みたいなものだと思っているのかも知れません。実際は日本人こそが世界の少数民族みたいなものなのに。その点ではソ連~ロシアの人々は、そもそもイスラム教徒やシベリアの方の仏教徒をソ連人として内包していたことから、イスラム教徒に対する変な偏見は少ないと感じています。

父のような人の誤解を解くためにはなにより、善良で健全なイスラム教徒に出会ってもらうしかないと思うので、マレーシアやインドネシアや、中央アジア諸国を連れ回したい気持ちがふつふつと芽生えてきます。

じつはこういった体験は初めてではなく、私が子供のころにも父は、中国に行ったこともないのに「チャンコロはどうしようもないな」というような事を言っていて、私は内心、そういった大雑把な決め付けに疑問を感じていました。高校卒業後に中国に渡るために中国語を勉強して、実際に1年間中国に渡って暖かい人民の人たちのホスピタリティに触れて、そういうことを書いた手紙をしきりに実家に送るようになってからはさすがに父のそういう発言は鳴りを潜めました。

今思うと、私が世界に関心を持ったきっかけはひとつではないですが、私の父の思い込み、決め付け発言が本当かどうか知りたい、もしも違っていたら父の意見を訂正したい、という気持ちも確かにあったと思います。

先日の帰国で、中国や韓国の対日感情が何年か前にくらべて何パーセント悪化した、というニュースが2分くらい流れたときに、父は言いました。

「お前は20年前、いいときに中国に行った。今は大変だぞ」

やれやれ。実際には私は2年前に再度中国にゆき、彼らが何も変わっていない、むしろ人々の表情は明るく、良くなっていることを確認しているので、その発言にも反発を覚えましたが、色々と説明するのも面倒になってしまって特にコメントはしませんでした。

湿度70%の街

先週、すこし日本に帰っていましたが、日本の夏ってあんなに大変だったのか、という新しい発見がありました。

湿度70度の世界。洗濯物もなかなか乾かないし、かいた汗が全然蒸発しないのでいつまでも頭やシャツが濡れていて、気化熱で冷めるわけでもなくずっと頭と体がぬるい。着いて2日目くらいで「はやくカラカラのタシケントに帰りたい!」と思わず思いました。

タシケントを出る前はちょうど猛暑がやってきていて、気温が41度(街頭は45度くらいになっていたはず)でしたから、つらいなぁと思っていたけれど、夜になれば涼しくなるし、日陰に避難していればそれなりに過ごせる。でも東京の夏は、夜になってもずっとサウナだし、30度を下回らない。あんなに、ずっと冷房をつけていないと過ごせないとは思わなかった。

おりしも、日本には歴史的な猛暑が訪れていたようで、国内最高気温が更新されたというニュースがありました。東北では大雨で家が流されたり、帰国前日には私の実家のある横浜をひどい落雷が襲って停電。あんなのは生まれてはじめて。

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自己紹介

自閉な子供→ヒッピー→フリーター→IT会社員→ウズベキスタンで協力隊→無職→近所に就職。今後はたくさん旅をします。ときどき音楽の話題も。

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