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大陸性ステップ 旅と音楽。

旅や音楽の記録。

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My Birthday Came and Went...

My birthday came and went...

一年で一番友達が関心を寄せてくれる一日。3月7日は私の誕生日でした。

もしも職場にいたら同僚たちがパンとチキンの丸焼きを買ってきて、ジュースでトーストしてくれていた筈なのだけれど、丁度その日はJICAの隊員総会があって、出勤できなかった。


隊員総会の一こま。先輩隊員によるショッキングなスライド。オシュは一皿2100Kcal、ノン一個は980Kcalなんだって・・・

その夜は隊員と職員の送別会がありました。誕生日なので気が大きくなって、ビール、ワイン、ウォッカウォッカ。ウォッカ。根暗な性格なのであんまり人前に出たりするの好きじゃないんだけれど、誕生日なので気が大きくなって、散々大騒ぎしたみたい。恥ずかしい。

同期隊員のすごくおいしいケーキの差し入れも頂きました。

ところでこの日、とても珍しく

吹雪

でした。私の生まれた1974年のこの日も雪が降っていたらしいよ。


翌日3月8日は、国際婦人デーで国民の休日。残ったウォッカを水で薄めながら雪を眺めていました。

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世界にはまだまだ秘境がたくさんある。

最近、何か情報を検索していると、世界一周中の若者のブログやTwitterページに行き当たることが多いです。それも一人だけじゃなくて、すっごくたくさんの人が、ブログやTwitterで情報を発信しながら世界一周してるんだな、ってわかります。

先日少し下の世代の人と話していて、タロウさんの時代にバックパッキングなんてしてる人いなかったんじゃないか、と言われたのですが、そんなことは無いです。

私が20代のとき、今から20年前くらいですが、日本人のバックパッカーも世界一周中の人もいっぱいいました。沢木耕太郎さんの頃で40年前くらいでしょ?金子光春さんが放浪していた頃はさすがに少なかったと思うけど。

でも、私の頃、インターネットが無かったから情報発信しなかったんですよね。正確には、情報発信していたけど、それは個々の宿におかれている連絡ノートだったり、地球の歩き方(書籍のね)に投稿したりする方法しかなかったんです。

だから、当時から名も無き伝説のパッカーみたいな人はたくさんいました。可視化されてなかっただけです。

重たいロンリープラネットとか歩き方を何冊も持ち歩いて、バックパックが重くて馬鹿みたい!と思ったり、ある国を出たときにその国のページは破り捨てたり、しました。

今はそんなことしなくても、スマートフォンを持っていれば先々で随時情報を得ることができるので、非常に楽です。それに、地球の歩き方に頼らなくても、世界中の個人がいろんな場所から情報を発信してくれるおかげで、ガイドブックに載ってない場所への旅も難しくなくなりました。

それじゃ、どんどんあからさまになって、世界中の秘境がなくなっていくのではないの?かというと、そうでもないです。やっぱり世界は広くて、まだまだ情報が無い、少ない場所はたくさんあります。

2011年、中国大陸から台湾の離島に渡る国際高速艇に乗りましたが、その船の情報はまだインターネット上にも殆どなくて、中国語のBBSを翻訳して情報を得ました。バックパッカーが利用できる(それに金額的にもパッカー向け)にもかかわらず、殆どのバックパッカーが存在を知らないみたいです。

台湾と中国みたいなメジャーな場所でさえそうなんですから、まだまだ、世界には秘境がめちゃめちゃあるはず、です。

良い支配と悪い支配

支配には悪い支配と良い支配があると思います。

たとえば、日本は韓国を一時支配していましたが、50年以上経っていまだ、韓国は日本の支配に言及しています。

ベトナムはフランスに植民地支配されていて、大変な独立戦争を経て独立を勝ち得ました。今ではフランス語を話す人もいないし、ベトナム人が外国人を騙そうとするとき、少なからず外国人に対する敵意みたいなものを感じます。フランスとか米軍が、よっぽどひどいことをしたんだろうな、と思います。

インドは英国に支配されていました。インド人も外国人と見ると巧みに騙したりします。一部英語化されているインド人もいるものの、やっぱり英国の支配はあんまりいいものじゃなかったんだろうと思うことがあります。

ウズベキスタンはソ連の一部でした。

しかし、ベトナムやインドにあるような、一定の外国人に対する敵意みたいなものは、ここでは感じません。言葉のわからない人に対してちょっと値段を水増しするようなことがあっても、せいぜい1.5倍くらい、とても控えめ。基本的に、お客さんは歓迎しようとするのは、ウズベク人が来客好きで心優しいのも理由の一つだと思いますが、ソ連の支配が、そんなに悪いものじゃなかった、というのもあると思います。

普通、独立というと、旧支配国の人々は虐殺されたり収容所に入れられたりします。でもここでそういうことがあったとは聞かないし、

独立というと、独立戦争が起きて、多くの死傷者や難民が出たり、虐殺が起きたりすることも多いですが、ここではそういったことは聞かないし、独立後もウズベクとロシア人が仲良く共存しているようです。むしろ都市のウズベク人はロシア的なものを良しとして、家庭によってはロシア語を話し、ロシア式に生活し、つまりロシア化しつつあるウズベク家庭もあります。もっとも、独立前夜のロシア人たちは、その後の運命に大きな不安があったものと想像できます。

※3/7 5:00ちょっと書き直しました。

関連エントリ
Russiaのジャージ
CIS諸国のロシア人

CIS諸国のロシア人たち

何の心配もなく自分の国に住んでいた。

ある日、目が覚めたら、祖国にあたる国が勝手に独立していて、自分の国が、自分の国じゃなくなっていた。

そんなことは滅多やたらに起きることではないけれど、それが起きてしまったのが、ソ連崩壊だったのでしょう。

ウズベキスタンに住むロシア人にとって、ソ連という「自分たちの国」で安心して寝起きしていたのに、ある朝目覚めたら、そこは「ウズベク人が主権を持つウズベキスタン」になっていたということで、そのショックは計り知れません。

それは、10カ国以上ある旧ソ連諸国のどこでも起きていることだと思います。

ロシアに帰れる人は帰ったのでしょうが、経済的に、もしくは頼る親族もない者はウズベキスタンに残って生きてゆくことを選びました。

ある人は職をなくし、アル中になった人もいるでしょう。そういう人はタシケントでも時折目にします。

そして、独立以降タシケントで生まれた世代(2世なのか3世なのか、わかりませんが)。彼らは、生まれながらにしてマイノリティで、祖国であるはずのロシアは資源バブルでキラキラした生活をしているのを横目で見ています。

ウズベク人にとっては、結果的に晴れて自分たちの主権とともに独立ということになりましたが、マイノリティとなったロシア人にとってはそれはもっと複雑なことなんだろうと考えます。

関連エントリ
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良い支配と悪い支配

ザワークラウトとキムチ間違えるかよ・・・

ザワークラウトとキムチ間違えるかよ・・・


ザワークラウトとキムチ間違えたとか書くと、私がすごいドジっぽいので。

タシケントでは結構な店でこういうものが買える。


袋詰めの漬物。私ははじめこれがキムチかと思って買った。そうしたら中身はザワークラウトの失敗作みたいな、なんというか、キャベツの甘酢漬けだった。だから煮たり焼いたりしながら消費した。

そして、昨日は、煮込むためにそのザワークラウトみたいなものが欲しかったので、買った。そうしたら、中身は白菜のキムチ漬けだった。

私はちゃんと「カプースタ?」と確認したのですが、ロシア語だと白菜もキャベツもカプースタなので、それも問題。厳密には白菜をキタイスカヤ・カプースタなどと言い分けるそうですが、ストリートではどっちもカプースタ。

味は、韓国のキムチと比べておいしいとは言えない。白菜は半透明になってしまってるし、保存のためにアルコールを入れてるみたいで、ちょっとアルコールくさい。寒すぎてうまく発酵しないんじゃないかなー。ラーメンに入れて消費しました。

地下鉄でスマフォいじってるだけで怒られてた

地下鉄でスマフォ

駅でメトロを待っていたら、チャラチャラしたいかにもタシケントっ子の若者3人組が、スマフォかなにかいじりながらやってきて、女の子をじろじろ見たり冷やかしたりしていました。

するとタシケント名物とも言えるお廻りさんがやってきて、スマフォボーイに絡み始めた。

「おいお前、その携帯で写真を撮っただろう」

「撮ってませんよ」

「本当に撮ってないか見せてみろ」

「撮ってませんてば」

みたいなやり取りを、目の前だったので仔細に眺めてしまった。

結局、写真云々は無実だったみたいです。(注:タシケントの地下鉄では写真撮影厳禁)

その若者たちも、いかにも現代な子たちで、殆どの人が黒の汚いジャケットしか着ないこの街で、なんと3人とも真っ白のダウンジャケットとかカラフルなスニーカーを履いていて、すごく浮いてた。多分地方出身なお廻りさん的には、なんか一言言ってやりたい奴らだったのかも。

帰り道、そんな街角の風景を反芻しながら、この国のいわゆる下っ端な人たちは生きるの大変だななどと思いました。

実力主義じゃない、コネと年功序列が一番大事なこの国だと、学生とかインターンとか、若い社員などはじつに上の人の使いっぱしりとしてあちこち走り回らなければならず、見ていて気の毒。学校じゃ上級生にいじめられるし、街に出れば警官にいじめられるし。ある程度年をとりさえすれば、そんなに邪険にされることは無いみたいだけど。

ソ連崩壊についていろいろ考えた

ロシア語の教科書は、旧ソ連時代に印刷された30年前くらいのものです。

その中の1ページ。



キャンディ4ルーブル。キャンディ1ルーブル80コペイカなどと書いてあります。4ルーブルといったら今は10円くらいのはず。ルーブルの補助単位コペイカなんて、今ではあまり使われていないものだそうです。

ソ連時代を懐かしむ先生によると、ソ連時代はモノの価格はモスクワでもシベリアでもタシケントでも全部同じで、下品なバーゲニングなどは存在しなかった。とのこと。

モノの値段がソ連全土で同じって、すごい話ですね。

それに、今ではキャンディ4ルーブルなんてあり得ない値段なんでしょうけど、たった30年でそんなに通貨の価値が変わってしまったというのも驚き。

モノの値段がひどく上がり、多くの人は職を失ったり、統一されていたモノの値段がバラバラになり・・・想像しただけで大変なことで、ソ連の崩壊っていうのは文字通り崩壊だったのだななどと思いました。

90年代の水泳選手ポポフは一度暴漢に襲われてナイフで刺されていますが、そういうことも一度きりではなかったらしく、飛び込み選手の金メダリストのドミトリー・サウーチン氏も、90年代に暴漢に襲われて胃を4箇所も切られたそうです。とにかく、そういう時代だったってことですね。

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自閉な子供→ヒッピー→フリーター→IT会社員→ウズベキスタンで協力隊→無職→近所に就職。今後はたくさん旅をします。ときどき音楽の話題も。

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