12歳 / すでに旅にとり憑かれていた。(鉄道ファンとしてだけど。)いつも時刻表を見ながら空想の旅をしていました。時刻表の巻末の国際航路案内にドキドキしていたのもこの頃。
自分の人生を構成する大きな要素って旅と、音楽と、ITっていう三つなんだけれど、改めて考えると旅っていうのが一番早かったんだとわかる。この後旅を続けることが人生に与えた影響が大きかった。
18歳 / 高校を出てバイトをして、いつか乗ってみたいと思っていた上海航路に乗りました。目的は中国のレトロな鉄道に乗りつくすことと、食堂車でご飯を食べること。このために陳真先生のラジオ中国語会話も聞いていた。
初の海外が中国一人旅一ヶ月間だった。初めての海外でありがちな感動で満ちて幸せだった(モノが買えた!言葉が通じた!友達ができた!)。この頃はそれ以上のことは考えてなくて、とにかく自分が満足していた。
19歳 / 旅行なのか家出なのかわからないけど、10000ドル持って再度上海へ。結局22歳まで大陸放浪していた。
旅をしながら自分について、社会について色々と考えた。とりわけ多く考えたのは、日本人に生まれた既得権益について。自分は一年バイトしただけで海外で遊ぶことができるのに、訪れた国の人々は一生働いても海外に出ることなんかできない。それでも同じ年の人たちは遊んでくれた。その後の人生はその既得権益を還元するようなことがしたいと思った。それから、自分が何をするにしても何の専門家でもないことに気づいて悩んだ。
22歳 / 3年ぶりに日本に帰国して、とりあえずまた稼ごうと飲食店でアルバイトを始めた。
カルカッタの町でひとしきり泣いて、憑きものが落ちたように帰国を決めた。帰国してもどうしたらいいのかわからなかったので、とりあえずまたお金を貯めてアジアに戻ろうとしていた。同時に、若者らしく愛欲を満たすような方向にも傾いた。
27歳 / 自分の専門性の無さに落ち込んで今後の人生を専門性の追及に費やすことに決めた。
工場で働きながら、このまま30歳になるの?という悩みが生まれてきた。田舎の低賃金の職場らしく、暖かい人間性がある一方で荒っぽかったし、自分はここにいる人間じゃない筈、という思いもあった。それから英語とかITの勉強を始めた。仕事がルーターの設定だったから仮に通信分野で行こうと決めて、結局その仕事が続いた。
30歳 / 転職。やっと正社員になった。
とりあえず、このまま何年か働いてプロフェッションを確立しようと努力した。32歳くらいから、都心のど真ん中のすごいビルで働くことになって、ちょっと得意になったりしていた。放浪時代の志(既得権益の還元したい)もしばしば忘れかけていた。いい職場で働くにはいい服も着ないといけないし、安月給で全然貯金はできなかった。やりがいと勉強だけが救い。もしもこのまま安定した会社員生活ができるなら一生このままでもいいと思っていたかも。
38歳 / 地震。今したいことをしないと、人生なんていつ終わるのかわからない・・・と思って、退職、協力隊へ。
会社員後半は、遣り甲斐も半減して勉強にもならず、給与も低く精神的に参っていて、自殺を考えたり睡眠薬を乱用したりしていた。無為に数年が過ぎ、東日本大震災が起きた。一瞬にして混乱した東京を見て、安定って儚いものだと思った。明日のことなんてわからないし、いつまた大災害が起きて安全が、命が奪われるなら今したいことをしておかなければと思った。それで退職、昔の志も久々に思い出し、協力隊に応募。合格、タシケントに来た。
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陳真先生のことを検索していたら、2006年にお亡くなりになっていた。以下の寄稿が感動的だったのでメモ。
中国語講座の陳真さんを偲ぶ - 『人民中国』
http://www.peopleschina.com/maindoc/html/200503/tebie60.htm小さな巨人
http://japanese.cri.cn/173/2005/05/18/1@40708.htm
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