太朗は悩んでいた。二年間、外国に住まわないといけないとしたら、なにを学んで今後に生かしたらいいか。勤勉で生真面目すぎる性格の太朗には、ただ外国で過ごす日々はいかにも無駄なことに思えた。
太朗の両親は歳を取って引退を待つばかり、そして、就職氷河期にはずれ籤を引いた太朗は、貯金もなくいつだって将来の心配をしていた。
「今は、ロシア語を勉強したほうが、身のためだ。なによりメシの種になる。」
なぜなら、ロシア語は、国連の公用語だし、旧ソ連諸国のどこでも使える言語だ。当然、将来性が高いと太朗は思っていた。
太朗は二ヶ月のウズベク語訓練を受けてウズベキスタンにやってきた。ウズベク語は日本人には馴染みやすい言語で、ウズベク人も外国人が話すウズベク語をとても喜んでくれた。でも・・・
太朗の心には葛藤が渦巻いていた。ウズベク語なんて、話せたって将来の飯の種にならない。それならばロシア語を覚えなければ。
ロシア語の塾に通い、いつもロシア語を使うようにしていると、徐々に難しい活用も含め話せるようになってきた。そして、同時にウズベク語を忘れるようになった。
その頃から、同僚たちの態度は変わった。
「はじめはウズベク語を話してくれたのに、最近はロシア語しか話してくれないのね」
「もうウズベク語は忘れちゃったのかい?」
彼らの瞳に浮かぶある種の冷たさに気づいた。
「お前も、あちら側に行ってしまった」
「お前はもう、仲間じゃない」
ウズベキスタンでロシア語を母語とする人々は一割程度だったが、ロシア語を覚えるにつれ、付き合う相手もロシア語話者に限られるようになった。以前、一緒に遊んだウズベク人の友達たちとは、次第に疎遠になっていった。なぜなら、以前はウズベク語で言えた簡単な単語さえも、ロシア語でしか言えなくなってしまったからだ。言葉を忘れてしまったばっかりに、交友関係さえ失ってしまったのだとしても、太朗は信じていた。10年後に飯の種にするためには、ロシア語を話さないといけない。ウズベク語を話している場合ではない、と。
(10年後の世界)
飛躍的に発展を遂げた中央アジアのトュルク語話者たちは、ユーラシア大陸全域に経済圏を延ばし、すでに、ユーラシア大陸の第二言語がロシア語を抜いてトュルク語になって久しい。おもえば、ウイグル族が中国からトュルク大帝国に移管されてから、ユーラシア大陸のステイクホルダーがトュルク人になったのだ。国連の公用語には、元中央アジア各国の言語を標準化した「トュルクラルティレー」が採用された。
アルマトィの街角では、すでにロシア語話者はすっかりマイノリティになった。「ズドゥラストヴィーチェ」と問いかけても、「アッサロームアライクム」と帰ってくる街になった。
ひとりの物乞いが、今日も信号待ちの車の窓に手を差し出し、話しかけた「ズドゥラーストヴィーチェ」
車は乾いたエンジン音をたてて走り去った。彼は思った「あのときに、ロシア語ではなくて、ウズベク語を選んでいれば・・・」
(このエントリーはフィクションです。実在する国家、人物、言語とは一切の関係がありません。)
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