最近のインターネット利用で、私がちょっとひっかかっていること。(でも、オツムが悪いのでうまく書けないから箇条書きで)
本を買う前にユーザーレビューを読んでしまう
ネットでモノを買う時代になって、ユーザーレビューっていうのがいつもついて回るようになりました。でも、昔ユーザーレビューっていうのが無かった場合でも音楽や書籍っていうのを買っていて、困ってなかったし、たとえば本なら最初の数ページ読むなり、目次を読むなりして、「読む本、読まなくていい本」を見分ければいいのに、なんで素人のレビューなんて読んじゃったんだろう、俺。って思うことが多い。
映画を見た後で誰かの映画評とかユーザーレビューとか読んでしまう
映画を見た後で、余韻に浸るためにいろんな人のレビュー、映画評のようなものを読んでしまって、映画の後の余韻をぶちこわしてしまうことが多い。本来、映画を見た感想っていうのは個人的なもので、ほかの人の感想とか批評なんて必要としていないのに、なんで読んじゃったんだろう・・と思うことが多い。自分が好きな映画なら好き、で完結していいのに、なんで誰かがつけた点数なんか気にする必要ありますでしょうか。
「涙がとまりませんでした」などとShareされてくる情報がとっても多い
感動がとっても安いものになってるんじゃ?
よくSNSなどで、「感動しました」「涙がとまりません」とシェアされてくる情報があります。でもなんか眉唾、って思えるものが多くて、最近そういうの見ると拒絶反応があります。涙は生理現象。時々涙を流すとすっきりするのは知ってるけど、それを見越してあからさまな「お涙頂戴」なアーティクルを提供するインターネットサイトってえらくいっぱいある。そういうところの情報はたいてい「みんなが泣ける」ようにうまく加工されていると思う。泣ける出来事というのはもっとパーソナルなもので、万人が泣ける、というできごとがそうそうあるわけじゃないのに、って思います。
同意も批判もボタン一つでShareする人がいる
自分では何も書いてないのに、誰かの意見をShareするだけで自分が意見を言った気になっている人がいる
TwitterにおけるRetweet、FacebookにおけるShareという文化がすっかり根付いたせいで、せっせと他人の情報をバケツリレーすることで生産している気になってしまう利用者が多いのではないかと感じます。何か考えた、考えてるなら書くなり言うなり、自分がアウトプットするのがいいと思うけど、誰か他人の記事をボタン押してShareすることで何か言った気になるのは私はいやだし、批判するにもボタン一つ押しただけで、友達たちに「拡散」するなんて、「悪い奴がいたから、お母さんにいいつけてやる」っていう幼稚文化って思ってしまう。
タイトルと本文が恣意的に乖離していたり、全然違うことを言ってたりする記事はとても多い
インターネットはPV数が大事だから、クリックさせることに重点を置いていることがあって、たいしたことのない記事にびっくりするような、目を引くタイトルをつけるっていうことがよく行われている。もっと悪いのは、タイトルだけ読んで本文を読まずに、読んだ気になってるインターネットユーザーもかなりいるような気がする。
良質なものはタダでは読めなくなったし、きちんと新聞社が提供する記事はやっぱり良い
10年前くらいは、これからはニュースをネットで読める、いい時代になったとおもったけど、今は良質な記事はたいがい有料で、無料で読める記事はくだらないゴシップや噓、妄想みたいなのが多くなってしまった。こうなってしまうと、大手新聞社が有料で提供する記事を、お金払ってでも読みたい、って思う。やっぱり、きちんと編集者がいて方針があって、プロが書いている記事はお金を払う価値があると思います。