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大陸性ステップ 旅と音楽。

旅や音楽の記録。

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魔が差して客に呼ばれてしまった話(後半)

ドライバーのおじさんはそれでも悪気がなかったようで、

「いやー、わりぃわりぃ、すっかり忘れとったわー」

などと言いながら、きた道と逆方面に発車しようとしている同業者の車を止めて、私を乗せてくれた。バスの終点で。ちゃっかり、運賃取っておいてまた取られるんだな、と思ったけれども、降りるときには、「ん?要らないから降りな」と降ろしてくれた。いい人じゃないか。

待ち合わせ場所のテオドールは、実際のつづりはDeldoraだったけれど、まぁ通じたからいいさ。待ち合わせの相手に電話する。2,3回の呼び出し音で出た。

「今どこにいる?バス停にいる?どうやってきたの?バス?」

「じゃあ、そっから薬局の方面に歩いてみて、薬局の前まできたらこっち見て、○×#@%$・・・」

どうも、向こうからはこちらが見えているのに、こちらからは見えていないというシチュエーションらしく、電話の指示どおりに私を歩かせようとしている。しかし、問題は彼の喋る半分くらいしか、聞き取れないということだ。

私はキレた。タシケントに来てから、キレたことなんか殆どないのに。



「私は、あなたの言うことがわからない!何を喋っているの?そしてどこにいるの?近くにいるなら迎えにきなよ!」と。

決まり悪そうに迎えに来てくれたが、なんてことはなくて、私の居た場所の道路を挟んで向かい側の高層住宅の窓から私を見ていたらしい。リフトで降りるだけならば、なんでバス停まで迎えにくるくらいできないのだろう。来なきゃよかった感が再燃してくる。

部屋に行くと、大げさにお客様用の宴卓がセットされてあった。お菓子、豆類と山盛りのいちご。

私は、人を客に呼ぶのは嫌いじゃないけれど、自分が客としてもてなされるのは大して好きじゃない。なんというか、身に余って恥ずかしい。だから、汚いキッチンでつまみもなく酒を飲むほうがよっぽど嬉しいのだけれど、応接間に通されてしまったならしょうがない。善良な客人として振舞うまでだ。

テレビを見ながらウォッカ。お酒を飲むとだいたい面倒なことも忘れるので、にこやかに。

お客さんに行った先で悪酔いしたくないので、家で日本の胃薬を飲んできたせいか、ウォッカもすすむし、悪酔いもしなかった。日本に帰国するなら、奥さんに着物を買ってきて欲しいとか、カメラでもいいんだけど、と、ウズいことを言われたけれど、キモノとはとても庶民が手に入るようなものではなく、お姫様が買うものなのだよ、などと適当に言った。奥さんの名前はウズベク語でお姫様を意味する名前なので、お姫様が買うものだと言った所で諌めることができたのかは不明だけれど。

帰国するとしたら時期的に夏だから私でも買えそうな浴衣セットくらいならプレゼントできるかもしれない。

ロシアでしか手に入らないごちそうらしい、半生の魚(魚の塩漬けなんだけれど、まるで干物を水で戻して焼かずに食べているみたいな)を食べて、魚食の日本人としては、これじゃない感がむくむくと芽生えた。久々の魚だからうまかったけど。なんで火を通さないの?ってやっぱり思った。それから、奥さんの手料理は、新キャベツと新たまねぎを使った芋の煮っ転がし。とても美味しかった。満腹だったので味見程度しか食べられなかったけれど、お土産に持って帰ってもいい?と聞いたくらい。

帰りは親切にバスまで送って貰って、明るいうちに家に帰った。バスやメトロでウォッカ臭くて迷惑だったろうと思う。メトロ駅では、警備の警官に「飲んでるんだろう?今日はロシア人の祭り(復活祭)だが、君たち日本人も祭りなのか?」と聞かれた。ごめん全然違う。

結局、出不精の呼ばれ嫌いが直ったかというと、外出の面倒くささと、酒を飲みながらダラダラ話した充実感が相殺されて、特に出不精は直らなかった。次ぎにまた魔が差して、どこかに呼ばれてゆくとしても、やっぱり不満タラタラなんだろうと思う。しょうがない。

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魔が差して客に呼ばれてしまった話(前半)


5月だ。ポプラの綿毛が舞い飛ぶタシケント。どうも顔がくすぐったいので触ってみると綿毛だったりして、想像以上にうざい。気候はすっかり初夏で、Tシャツじゃないと暑い。
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実は、あまり休日に人に呼ばれたりするのは好きじゃなくて、できれば家でテレビでも見ながらゆっくりしていたい方なのだけれど、魔が差して休日に約束をしてしまった。夏のようによく晴れた暑い日曜日。

サムピー(私の勤務先)の「裏手」に住んでいると聞いていたので、それなら行くにも迷わないし、行ってもいいかな、と思ったのが魔が差した原因。でも当日に指定されたのは、「マキシムゴーリキーまで来て、いつもと反対側を降りて、41番のマルシュルートカで、○○ってとこで降りて、電話くれる?」っていうものだった。 全然、裏手じゃねーじゃねえか。しかも、乗ったことのないマルシュルートカで、聞き取れてるかもわからない場所で降りろ、なんて、外国人にはハードルが高い。がっかりだ。

手ぶらで行くのも悪いので一応スーパーに行ったけれど、贈答品は私の手持ちのスムでは足りないし、何を買っていったらいいのか見当がつかない(これも、メフモンに行きたくない理由)。苦し紛れに酒とチョコレートなんかを買って、地下鉄に乗る。地下鉄を乗り換えて、マキシムゴーリキまでやっとこさ行って、次はマルシュルートカの乗り場を探す。

マルシュルートカはルートの途中で乗り降りができるのを知ってるけれど、知らない路線なので、乗る前にちゃんと運転手に話をつけておきたかった。「○○っていう所に行きますか?」 と、「すみませんが、○○ってところで教えてくれませんか」という交渉を、適当に道路で止めたマルシュルートカでする自信は全然ない。

結局、回送中らしいマルシュルートカを見つけて、不機嫌なロシア人のおじさんドライバーに、指定の場所でおろしてくれるように頼んだ。

無事に発車して、一安心と思ったら、暫くしてマルシュルートカは終点についてしまった。

「で、ここは終点みたいだけど、○×はどこなんですか!」と運転手に聞いたら。「しまった!君のことをすっかり忘れていたよ」と言われた。わざわざそのために運転手の隣の席に座っていたのに、忘れるなんて。

この時点で、もう来るんじゃなかった。家で大人しくテレビでも見てればよかった、と後悔した。週に一度の休日に、もぞもぞ地下鉄を乗り換えて、歩き回ってバス乗り場を見つけたり、挙句降りる場所を教えてもらえずに、人気のない終点に連れていかれるなんて、最低の休日じゃない?

(つづく)

進んでるんだか、進んでないんだか

「俺がカードで決済するから、あとで現金ちょーだい」

今日のお昼のこと。同僚の某君。このパターンはなるべく回避したいところ。理由は後で述べますが。

結局、二人分のランチ代の合計が15000スムで、後で彼が8000スムちょーだい、と請求してくる。おもわず、「そんなわけないでしょ?」と言った。

人とあわせて会計するときに、自分の分が幾らなのかを確認する必要があるので、レジのおねーちゃんに、「私の分だけで幾らなの?」と聞いたんだけれど、まったく、目の前の皿をレジに打ち込んでレシートを渡すだけが仕事だと思っていて、はっきり言って何も考えていないパンダメイクのおねーちゃんに、そんなこと要求しても駄目で、一瞬「何いってんの?」って顔をされただけであとは無視された。

ただ、経験上、会計は6000スムになるはずだったので、(毎日同じものを食べてるんだから、知らないわけない)、8000スムは高すぎるし、レシートを貸してくんない?と彼からレシートを受け取った。計算したら、やっぱり私の分が6000スム、彼の分が9000スムだった。

こういうことは、前にもあって、そのときは追求しなかったのだけれど、往々にして、6000+9000スムのはずなんだけど、半額の7500スムを求められたり、それより多く求められたりする。彼が、せこく多めに請求してやろうとしているのでは無いのは、ボンヤリした性格からしても考えられなくて、単に計算が苦手なので、50/50の割り勘くらいしか考え付かないんだと思う。(けっこう、計算が苦手な人は多いみたいです)

でも、6000しか食べてないのに7500払うのも癪だから、ちゃんと自分で計算して、6000スムであるのを納得させて、それだけ払った。

結果的に、彼に恥をかかせたみたいなことになってしまって、私もなんだか気分が悪いし、こういうことがあるから、他人にカードで払わせるの嫌いなんだよ。

ただ、そういうことが多々あるのは、この国の給与が、半分か全額か忘れたけれど、電子マネーのカードに入金されることに要因があります。電子マネーに給与がチャージされるのでは、使う場所が限られるので、なにかとかこつけて代わりに支払ってあげることで現金化をしようとするのです。携帯電話のチャージなども、現金でチャージしようとすると、どこからともなくおじさんが現れて、俺がカードで払ってやる、と申し出られることがあります。私は慣れているので、気になりませんが、外国人からしたらびっくりするでしょうね。


コーヒー

作ってくれているものに文句を言うのは日本人的じゃないかも知れないのだけれど。

前の事務のお姉さんは、インスタントコーヒー(私が買ってきて置いている)が濃すぎて、とても飲めないものを、よく淹れてくれていた。おそらくスプーン5杯くらいを入れてしまうので、口に入れた途端に苦いを通り越して冷たく感じるようなものだった。しかも、それを職場の人全員に日に二回も振舞うものだから、買ってきたインスタントコーヒーがあっという間に、一週間くらいで無くなってしまって、一袋のインスタントコーヒーも私の生活費一日分くらいになるものだから、困っていた。

その人が辞めて、今の人が来たんだけれど、この人はコーヒーの量は適量にしてくれるので、コーヒーが一週間で無くなることはなくなったものの、時々砂糖入りを頼むと、砂糖(私が買ってきて置いている)を3杯くらい平気で入れてしまうので、甘すぎて喘息の症状が出てしまう。ぜーぜー。砂糖でアレルギーが起きるって知ってました?

もともと、コーヒーを飲む文化のない地域なので、とにかく餡子みたいな分量の砂糖で甘くして飲む習慣があるのも、頷ける。最近は学習して、二杯目の砂糖を入れそうになったら大声で止めて貰う、っていうことをしている。もしくは砂糖抜きで頼む。

異国で、人になにかやってもらうのは結構リスキー。

『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』感想その2

『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』感想

(書籍の内容に触れているので未読の方は読まないほうが良い)

実は、米原さんが旧友三人を訪ねるプロセスは、NHKでテレビ番組化されているのを、偶然Youtubeで見かけた。文芸賞をとったノンフィクションを、ドキュメンタリー化した番組ではない。テレビ番組は1996年に収録、放映されていて、単行本はその5年後の2001年に出版されているので、実は、ドキュメンタリー番組が先行して、その収録を通じて得た経験をもとに、書籍が執筆されているようです。



で、このドキュメンタリーテレビ番組と、実際に米原さんが書いたノンフィクション小説を見比べると、とても興味深い。テレビの方は、いかにもテレビらしく、編集の技で少しの実話を混ぜたありきたりな美談調に仕上がっているのに反して、小説のほうはその裏話といってもいいくらいの、米原さんの心の中が仔細に描かれている。

一番印象的なのが、やはりアーニャに再会した際の描写で、テレビでは、マリとアーニャが再会して涙する場面が一番のクライマックスとして描かれるのに対して、小説のほうでは、アーニャとの再会はマリにとって一番納得のいかない、複雑な感情を残すものとして描かれている。

小説でアーニャが発する「私は母国に対する思いなど10%しか残っていない」という発言は、ドキュメンタリー番組にも収録されているので、実際の発言なのだろうけれど、ドキュメンタリー番組では、30年ぶりの再会を果たした同級生が感動的な会話を交わした、という描かれ方に終始しているのに対し、小説の中のマリは、その発言に強い反感を覚え、胸の中で反論する。そして、憤る。それが小説のクライマックスにもなっている。

また、ふたりが、一方はロシア語、一方は英語で話しながら、きちんと意思疎通ができている場面において、

アーニャ「言葉は人間の拡張である。言語が違えど、人間ならわかりあえるものだ。私たちにとってそれは不思議ではない」
マリ「人間は必ず属性を持って生まれてくる。それでも、こうして異なる言語でわかりあえるのは、人間というのは類的に同じであるといえる」

ドキュメンタリー番組におけるこの会話では、一見マリは、アーニャに同意しているように見える。しかし、小説においては正反対だ。

アーニャ「言葉は人間の拡張である。言語が違えど、人間ならわかりあえるものだ。私たちにとってそれは不思議ではない」
マリ(の心の声)「違う!あなたは、親の支えによる特権によって、ロシア語の教育を受けているのでロシア語を理解しているのだし、私も理由あって英語を理解しているのである。それはそのような一般論ではない」
マリ「人間は必ず属性を持って生まれてくる。」
マリ(精一杯の皮肉で)「(おっしゃるとおり異なる属性のままで分かり合えるのならば、)人間というのは類的に同じと言えるであろう。(しかし、決してそうではない)」

つまり、テレビ番組において和やかに〆られた会話は、当人同士にとってはすこしも和やかでなく、まったく意見が異なっていた、と米原さんの小説は述べていた。皮肉のつもりで言った言葉が、番組では本心として表現されてしまったことに対する後悔が、小説に見て取れます。もしくは、米原さんは、その場所では確かにそう思ったけれど、後になって自分の発言を後悔したので、弁明として「嘘つきアーニャ」を執筆したのかも知れない。

それで、(まあ知ってたことだけれど)、やはりテレビって都合のいいパートだけを切り貼りして、製作者の描いた筋書き通りに編集されてしまって、登場人物たちの気持ちなんて描けないことが多いんだな、と改めて思いましたよ。ソ連は白と黒しかなかった。ソ連から出たら、グレーが存在することを知った、というアーニャの発言は、番組において、モノローグとして語られるけれども、米原さんが、その主張に同意していなかったことは、小説にしか書かれていない。米原さんは、「そんな勝手な解釈に、私を巻き込まないでほしい」と、突き放しているのでした。それならば、反共産的に、恣意的にアーニャの発言のみを取り上げて編集されているのは、誰の意向なのでしょう。

もちろん、小説のほうがどれだけ実話で、実はどれだけ創作が入っているのか、とか、著者が死去されている今となってはわからないはずなので、テレビは駄目で、小説が真である、なんてことは言いたくないけれど。結論が正反対であるというのは、確かなのです。

1996年頃らしい訪問から5年が経過してから書籍が発行されている背景には、コソボ紛争が収束して登場人物の身の安全が保証されてから、晴れて出版することができたのかな、と想像することができました。米原さんという人の優しさを感じることができました。

『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』感想その1

『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』

を読んだ感想。

(書籍の内容に触れているので未読の方は読まないほうが良いです)

はじめ、このアーニャさんという人に結構同情的で、米原さんがどうしてそんなに憤ったのか理解できなかったのです。でも、それはタイトルの「嘘つき」っていうところに引っ張られていたんだな、と二回目に読んで思いました。

「黄色いノートの嘘」に関しては、あとでアーニャの兄との会話の中で種明かしがされるので、理由ある噓だったとして、再会後にルーマニア人であることを「無かったこと」にして、自分のルーツは90%イギリス人である、と主張するくだりでは、こういう人はいるものだ、と思いました。

人生を通して信念を貫く人もいれば、自分の環境を信念にしてしまう人もいて、私自身はどちらかというと後者であるし、アーニャもきっとそういうタイプなのだろうと思ったから。

でもなんとなく腑に落ちなくて、今日再度読み直してみたら、米原さんが憤ったのは、アーニャが信念を変えたからではなくて、あまりにも祖国に対する思いをなくしている、っていう点なんだってことに気づいた。

主人公はルーマニアで、暖房が炊けずに廃墟から薪を集める親子を見て、胸を痛める。一方で、政府の官僚としての特権階級に属するアーニャは、特例で外国に出て、外国人と結婚して裕福な暮らしをしている。その事実を見ないようにしているし、無かったことにしているアーニャに対する憤りを覚える。

それでも、やっぱり私はアーニャを責める気にはなれなかった。なぜなら、自分が今いる境遇を否定せずに、境遇を受け入れて信念を境遇に合わせようとすると、アーニャみたいにならざるを得ないのかも知れないし、それで社会的にも成功しているのならば、それも人生かな、とも思う。人によっては、運だって才能のうち、なんて言う人もいるのだし。かりに、ルーマニアの民衆を見て胸が痛まないの?といわれても、痛んだところでどうしたらいいの?と思うかも知れない。

でも、ティーンの頃からの幼馴染がそんな態度を見せているときに、何か言ってやりたい気持ちになってしまうのも、すごくわかる。

東欧について何も知らなかった

先日、米原万里さんの『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』を読んでいて、困ったことがある。自分が東欧について何も知らなかったってこと。東欧の諸国は東欧と呼ばれるのを好まないので中欧と呼ぶものということさえ、知らなかった。ああ!

改めて、GoogleMapなど見てみたんだけれど、私が地理で習ったときには、チェコとスロバキアは同じ国だったし、まだユーゴスラビアだったので、セルビアとかクロアチアとかあの辺の知識が全くないんだよね。プラハの春やソ連軍侵攻は、習ったかもしれないけれど、多分勉強が足りなかった。

この書籍で重要な意味を持っている、プラハの春、ソ連軍のチェコ侵攻、ルーマニアのチャウシェスク政権崩壊、旧ユーゴの解体とその後の紛争について、あらためて学ばないといけないな、と思いました。一度行ってみると想像しやすいんだけど。旅行しなくちゃな。(え?)

とりあえず地理だけ

マリさんやヤスチャが同級生だったプラハは、チェコスロバキアの首都、今はチェコの首都
チェコスロバキアはその後チェコとスロバキアになった
スロバキアの首都はブラチスラヴァ

アーニャの出身地ルーマニア、首都はブカレスト

ユーゴスラビアは、その後スロベニア、クロアチア、ボスニアヘルツェコビナ、セルビア、モンテネグロ、コソボ、マケドニアに解体された。

ヤスミンカに会いにいったベオグラードは、現セルビアの首都、当時戦火激しかったサラエボはボスニアヘルツェコビナ。
ボスニアヘルツェコビナの紛争は、セルビア人、クロアチア人とムスリム人の3勢力にわかれた。当時領内に住んでいた3つの民族は、セルビア人とクロアチア人の対立を背景に、ムスリム人を巻き込んだ内戦に発展した。ボスニアヘルツェコビナとしての独立を志向するクロアチア人とムスリム人、対するはセルビア人の共和国設立を目指すセルビア人。最終的には、クロアチア人とモスリム人のボスニアヘルツェコビナユニオンと、スプラブカ?共和国として独立したセルビア人の間で停戦。現在のボスニアヘルツェコビナは、スルプツカとボスニアヘルツェゴビナ連邦によって成り立っている。(その後コソボをめぐってセルビアが紛争地帯になる)

ボスニアヘルツェゴビナ紛争におけるセルビア人のサポーターであった新ユーゴは、セルビアとモンテネグロによって構成されていた。その後分離。

コソボは、セルビア内のアルバニア人自治区が独立を求めて96年から99年まで紛争。

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自己紹介

自閉な子供→ヒッピー→フリーター→IT会社員→ウズベキスタンで協力隊→無職→近所に就職。今後はたくさん旅をします。ときどき音楽の話題も。

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