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大陸性ステップ 旅と音楽。

旅や音楽の記録。

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出稼ぎ列車は今日もゆく

ロシアのサラトフから、カザフスタンを横断して、ヌクス・ウルゲンチを経てタシケントへ向う列車に乗りました。面白かったのでいろいろ印象的だった風景を書いてみました。おもいのほか、たくさん書いたので、Index.

出稼ぎ列車(5) タシケントは彼の通過地点、オパの旅先、そんで私の家。

出稼ぎ列車(4) 別れの抱擁

出稼ぎ列車(3) ハラショーラボータ

出稼ぎ列車(2) 帰郷

出稼ぎ列車(1) 乗車

プラツカルタのたびもたまにはオヌヌメ。
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出稼ぎ列車(5) タシケントは彼の通過地点、オパの旅先、そんで私の家。

列車はタシケントに近づいている。

寝台車の同じ区画に寝泊りした、ウルゲンチから乗車したお爺さんとお婆さん、娘は、てっきり家族かと思っていたけれど、お爺さんと娘が親子で、お婆さんは一人旅だったようだ。道中、お婆さんは娘のことをクズィム(私の娘)と呼んでいたので勘違いしていた。乗り合わせた者同士は即席の家族みたいなものなのだろうかと思う。

ひとり息子に会いに上京したオパ(お婆さん )は、30キロくらいのカバンと10キロくらいのカバンを持ってきていたので、結局私とカラカルパクのインテリが手分けしてタクシー乗り場までオパの荷物を運ぶことになった。ヌクスでも女性の荷物もち、タシケントでも女性の荷物もち。結局男性は女性を手伝うことになる。

オパは、ユヌソバッド地区までタクシーの交渉をしていたけれど、15000スムなんて言われて、抗議している。ユヌソバッドまででも7000スムあれば行けると思う。

運転手も負けじと、別の乗客を指差して、このお爺さんはユヌソバッドまで10000スムで行くんだから、そのくらいは払いなさいよ、おっかさん!と説得する。結局、お爺さんとお婆さんの相乗りでユヌソバッドまで行くことになった様子だ。親に反抗してロシア人の娘と結婚した息子に、総計40キロの荷物を持って会いにゆくおっかさんのドラマがまた始まりそう。

アングレンに向う出稼ぎ帰りの男は重そうな荷物をひょいひょい担いでタシケントの大通りに消えていった。

私は、疲れ果てていた。捻挫した足をひきずって天津飯店まで歩いて、マーボー豆腐を食べた。家はもうすぐ。

出稼ぎ列車(4) 別れの抱擁

デッキに出てタバコを吸いながら朝日を眺めていた。列車が減速して、朝焼けのナボーイーの駅に着いた。

車両の端のほうで窮屈そうにしていた若いウズベク人のグループが、自分の体より大きい荷物をかついで降りてゆく。なかには、大きな自転車のフレーム部分をかついで降りてゆく者も。ホームに降りた彼らは、互いに抱き合って「ヤフシボリン」と、これからの旅路の平安を祝福しあっている。ロシアの同じ現場で働いた、異なる土地の出身者たちが、別れを惜しんでいた。

次に出稼ぎに出るときに同じ現場で会えるとも限らない、異なる場所の出身の者同士でも、異国の現場で同じウズベク人同士働いたよしみがあるのだろうと思う。駅は出会いと別れの場所だというけれど、あんなに熱い、気持ちのこもった風景を久しぶりに見てしまって胸を突いた。

ウルゲンチでハラショーラボータたちが降りたあとは、ウルゲンチからタシケントに上京する人たちが乗ってきていた。タシケントに向う父と娘、カラカルパク人のオパは、息子が意に反してタシケントでロシア人の娘と結婚してしまったので、ときどきタシケントに上京するそうだ。それから、一緒にヌクスで乗ってきたインテリ。

インテリのカラカルパク人は、現在タシケントで博士課程に在籍している。たまたま、私が先週出たカンファレンスでプレゼンテーションをしていた青年が彼の同僚だったらしく、(デジカメの写真を見せていたらそうとわかった)、彼は電子工学の専門で私がコンピューターの技師なので、なんとなく話が弾んだ。

ヌクスの学校には水道の設備は無く、当然手洗い場も足洗い場もなく、トイレは離れの掘っ立て小屋にぼっとん便所が掘ってあるような有様で、ずいぶん可哀想だと思ったけれど、生徒の顔は喜びに溢れていたし、そういう場所が出発点だとしても努力次第でタシケントで博士課程まで進めるようなケースもあるのなら、単に環境だけを問題にするのもショートサイテッドなのかも知れない。もっとも設備の整った学校で教育を受けたって勉強の出来ない奴もいれば不良になる奴もいる。

出稼ぎ列車(3) ハラショーラボータ

出稼ぎ帰りの男たちは、ホラズム州やナボーイーで徐々に降りて行ったが、一人はこの列車の出発地のサラトフで働いて、これから東部のアンディジョンまで帰るということで、タシケントまで一緒に乗り合わせた。タシケントが近づくと(とはいえまだタシケントまでは2時間以上あったが)、いそいそと着替えて、髭を剃って、服をパリッとしたものに着替えて、香水をつけていた。

「久しぶりに故郷に帰るの、うれしい?」と聞くと、「そりゃーうれしいよ!」と満面の笑みで言った。2歳と5歳の男の子がいるそうだ。見た目は老けてるけどたぶん私より年下だろう。

運よく、出稼ぎ列車に乗り合わせたので、何人かの出稼ぎウズベク人に話を聞いてみたところ、口を揃えてロシアはいいところだ、と言っていた。

旧ソ連諸国からの出稼ぎ労働者というと、報道などを見る限り随分ロシアで酷い扱いをされているようで、不憫だなあと思っていたけれど、実際帰ってきた人たちが口々にお金も稼げるし、いい国だと言っているのなら、それほど酷い生活でもないのかも知れない。

もっともウズベキスタンだけで500万人もの男がロシアに出稼ぎに出ているなら、中央アジアやカフカス人全体で考えたら1000万人は超えるのだろうし、それだけいれば不幸な体験をする人も何人かいるはずで、そういう体験談が誇張されて広まる側面もあるのかな、と考えを改めた。

列車で出会った出稼ぎの男たちは、大概大柄でプロレスラーみたいな体格で、貧弱なスラブ人より力仕事向きだし、彼らの性格は大人しくて、親分の言うことをよく聞くし、それにグループ行動を好み、思いやりがあるので、出稼ぎの労働者のなかでは優秀(ハラショーラボータ)なのだろうな、と思う。

出稼ぎ列車(2) 帰郷

到着した列車を窓から覗いてみると、ウズベク人の浅黒い顔がたくさん見えた。それと、窓の外からもわかる巨大な荷物、荷物、荷物。

幾人かはヌクスで降りる乗客がいて、自分の体くらいある荷物を山ほど下ろし始める。カラカルパク人とは全然違う、浅黒くて中東寄りの顔。言葉からもウズベク人たちとわかる。車掌が、モタモタするな、早く降ろせ!と怒鳴る。

いよいよ車内に乗り込むと、こちらを見る顔、だれも真っ黒に日焼けして、上品で清潔とは言えない服を着ている。一見して肉体労働者とわかる。

それにしても車内は暑くて蒸す。ウズベク人の独特の体臭の匂いが篭っている。それに、乗客が多い。一つの区画に6人が乗れるはずなのに8人9人が身を寄せ合って座って、こちらを見ているのでなんだか笑っちゃう。

自分の席につくと、定員4名のところ、上段には1人が寝ていて下段には向かい合わせに6人が座っていたけれど、私がくると若い男がすぐに場所を開けてくれて、上段に移っていった。親切に私の座る場所を作ってくれる。それに、テーブルに出ていた巨大なメロンを切って分けてくれた。

聞くとニジニノブゴロドで春夏は働いていて、冬になったからウルゲンチに里帰りする出稼ぎ労働者とのことだった。皆バラバラのロシアの都市で働いていて、帰郷の列車で一緒になった同郷の者同士で一緒に座っているようだ。ニジニーからバスでサラトフへ来て、故郷に直行する列車に乗ったそうだ。

この列車に乗っているウズベク人は殆んどがそうした出稼ぎ労働者で、それぞれウルゲンチやらアンディジョンといった出身地に帰る人たちだった。荷物が多いのも納得。

建築現場で日に焼けて真っ黒になっているせいでだいぶ年取って見えるけれど、年を聞くと私と同じ73年生まれなので、親近感が沸いた。こどもは3人故郷に残してきている。

車内には次々と車内販売が回ってくるけれど、化繊の靴下やTシャツ、おもちゃだの小さなラジカセみたいなものだの、出稼ぎの人が家に土産に持って帰りたいようなのばかり売っている。それと、テンゲ、ルーブルをスムに変える違法な両替商もひっきりなしに回ってくる。

私がウズベク語を話すのですぐに打ち解けて色々と話を聞かされたりしたけれど、彼らは一様にロシアの労働許可証を持っていて、そのカードがあれば合法的にロシアの都市で働けるとのこと。旧ソ連の特別な労働枠というやつかな。

故郷が近くなって興奮したのか、ホラズムの音楽をかけて踊り出すグループもいる。並んで座る人たちもでっかいカバンを開けて荷物を詰め直したりしていて、カバンの中には化繊の靴下やストッキング新しいシャツ、おもちゃ、香水などのみやげ物がパンパンに詰まっていた。

ウルゲンチでは大勢のロシア帰りの労働者が降りていって、ホームにはカートで荷物を運ぶポーターが稼ぎ時とばかりに走り回っていた。

ウズベキスタンの人口は3000万人、そのうち、出稼ぎに300から500万人が出ているそうだ。

出稼ぎ列車(1) 乗車

ヌクスから帰る列車は、タシケントまで25時間かかる。長旅なので、楽な一等を取ろうと思ったけれど、あいにく一等は売り切れで、二等にあたるプラツカルタ(開放寝台)の切符が取れた。ちなみに、特等が2人用個室、一等が4人用個室、2等が開放寝台。

海外で寝台に乗るなんて久しぶりのことなので、盗難対策をどうしようとか、2つのかばんの配分をどうしようとか、事前に少し不安があった。あとは、
ロシアのサラトフというカザフ国境の街からカザフを横断してタシケントへ向う列車の2等寝台だとどういう客層がどっから乗ってきてるのか(それによってセキュリティ状況が違うので)を考えたけれど、そういうことは開けてみたいとわからない。

ホームに入ると、親切な駅のメカニックらしいおじさんが「バムカコイバゴン?(何号車?)」と聞いてきたので、「一号車です」と答えると、「ホームの、あーっちのほう」と指差してくれた。

すると背後から女性が声をかけてきた。
「あんたも一号車?わたしも一号車。一緒に行きましょうよ、ここに座んなさいよ」

見ると、足元にはでっかいバッグ。つまり一緒にホームのあーーっちまでカバンを運んで欲しいということだと思う。ウズベク語とカラカルパク語だけれどなんとなく会話になる。

時間になっても列車が来ないので駅員をつかまえると、パルタリチサ(一時間半)の遅れだそう。この暑い、直射日光のあたるホームで待つのはしんどいけど、カラカルパク人たちはタシケントの人と違って直射日光の中でも平気で待っている。「一時間半の遅れですよ」というと、不平不満を言いながら、それでも待つ。

列車がやってきたので眺めると、窓から覗く顔・顔・顔。どれも浅黒く日焼けしたウズベク人の顔だった。それに、溢れるばかりの荷物が積まれているのが窓の外からもわかる。

同行の女性は目当ての一号車に向けて走り出したので私もつられて走った。一号車の乗降口では、ひどく大きな荷物を次々に降ろすウズベク人と、我先に乗り込もうとする乗客が押し合い、へし合いして、ウズベク人の車掌は「早く下ろせ!」と怒鳴っている。どうなっちゃうの。

ポエズドから



25時間かけて、ウズベキスタンを列車で横断中。もうすぐ長旅も終わりです。正直退屈。

ロシアのサラトフからカザフスタンを経由して来たタシケント行きの国際列車、2等寝台(1等が取れなかった)は出稼ぎ列車でした。出稼ぎのウズベク人は大概いい人で、故郷が近づくと音楽をかけて踊り出したりします。

こちらのマナーで、パンだの葡萄だのひまわりの種だの、いろいろ勧められながら旅は続きます。

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自己紹介

自閉な子供→ヒッピー→フリーター→IT会社員→ウズベキスタンで協力隊→無職→近所に就職。今後はたくさん旅をします。ときどき音楽の話題も。

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