10世紀頃に中央アジアを出て西に向かったテュルクたちが、アナトリア半島にたどり着き、オスマン帝国を作った。一方、1402年には、中央アジアのティムール朝がアナトリア半島に攻め入り、アンカラの戦いが起きた。
ティムール朝は、モンゴル帝国の一つでティムールおじさん自身はテュルク化したモンゴル人だが、構成員は中央アジアのテュルクなので、テュルクの国家と思って間違いないと思う。
アンカラの戦いっていうのは、テュルク対テュルクの戦いってことになる。強いていうと、モンゴルの混ざってないテュルク対モンゴルの混ざったテュルクという感じか。それに、その後1507年にティムール朝を滅ぼしたのは、同じく中央アジアでチンギスハーンの子孫が率いたシャイバーニー朝(のちのウズベク)だ。
テュルクがテュルクに侵攻したり、征服したり、滅ぼしたりと、なかなか血気盛んで激しいなと暫く納得できなかったのだけれど、これらは、世界史の授業的に国対国の戦いとして考えるのではなく、日本史のように家対家(もしくはボス対ボス)で理解すべきことがらなんだろう。
それにしても、ティムールはこの地では英雄だけれど、歴史的にはティムール朝を滅ぼした人の子孫が今のこの地の人々なのだよね・・・。これも歴史の不思議だ。
こういった、歴史の解釈というのは割りと国によって全然違っていたりするので、ひょっとしたら一連のウズの歴史についての記事は某所から怒られてしまうのかもしれません。そういう意味でも現地の歴史の教科書を読むのは大事ですね。
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